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フッサール現象学は、独我論的であるとよく言われる。
「結局、客観的事実なんて、絶対に誰にも分かる訳がない」と、諦観まじりに開き直っているからである。
その代わり、フッサールは「客観的事実」より重んずべき認知の在り方として、現象の開示性(意識への現れ方)を提唱する。
我々にとって唯一「確かな」ことは意識に現れる「事象そのもの」のみであり、現象学的還元によって自然的態度を判断中止に追い込み、その事象の成立条件を雑多なノイズから注意深く取り出したみたところで(=現象学的還元)、判るのはせいぜいノエス(対象物)に対するノエシス(意味作用)の構造的成立条件ぐらいなものだ。
しかも、それはあくまでもその個人にとってそのようなノエシスが発生しているというに過ぎない。
「赤いリンゴ」を見て、単純に食欲をそそられるだけの人もいれば、赤さの微妙な色合いから今年の気候がリンゴにとって恵まれた環境であったかどうかを思う人もいるだろう。
つまり、全く同一の事象であっても、人それぞれが感じる現実は異なる。
要するに、方法論的に考えてみても、個体の多様性という面を考えてみても、当たり前と言えば当たり前の話なのだが、「客観的事実」なぞというものは判りようがない。
よって、フッサール現象学はすべてのノエスを疑えと説くが、「現象」が見出されるからこそ我々は疑い得るのである。フッサール現象学にあっては、政治問題であれ、日々の雑感であれ、空想であれ、夢であれ、すべては「現象」(もしくはノエス)という等価値な分析対象であり、そこには意義的な優劣の差はない。
つまり「現象」だけは疑い得ない。「現象」だけは超越論的な性格をもつ。
この性格を、フッサールは「超越論的主観性」と呼称する。
しかし、「主観性」とは言うものの、「客観」に対峙する「主観」という意味ではぜんぜん無いのだ。
そのため超越論的”主観性”という造語は、フッサール自身の失敗だったとよく言われている。
この性格は正しくは思考『作用』であり、「主観 - 客観」構造が脱構築された一つの優れた実例である。
物心二元論をこのようなユニークな方法で超克した哲学史上の大成果は、後にハイデガーに受け継がれ、実存論的存在論の礎石ともなった。
ところで独我論のイメージを助長させている一因として、「超越論的主観性」の”主観”の意味を履き違え易い、という点が紛れも無くある。
この履き違えを看過したままフッサール現象学を読んでいくと、フッサール現象学の誇大な矜持─「現象学的還元は、学問を厳正学たらしめる唯一の手法である」と説く強弁な印象に少なからず面食らう羽目になるのだ。
こう見ると、フッサール現象学は、厳正学の手法たらんとしたことで混迷に陥ったようにも見える。
学問はさまざまな手法と方法論を取り入れながら段階的に発展するものであるのに、果たして全学問に渡って通用する普遍的方法論など存在するのだろうか?
フッサールが現象学の哲学的な意義をもっと積極的に見出し、思考『作用』から構造論的なビジョンに想像力を飛翔させていれば、フッサール現象学の今日的評価はもっと明確なものになっていたに違いない。せっかくニーチェが「神は死んだ」と看破していたにも関わらず、学術的方法論にイデア的な理想を求めるのは、哲学を退行させる愚行なのかも知れない。