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フッサール現象学は、独我論的であるとよく言われる。
「結局、客観的事実なんて、絶対に誰にも分かる訳がない」と、諦観まじりに開き直っているからである。
その代わり、フッサールは「客観的事実」より重んずべき認知の在り方として、現象の開示性(意識への現れ方)を提唱する。
我々にとって唯一「確かな」ことは意識に現れる「事象そのもの」のみであり、現象学的還元によって自然的態度を判断中止に追い込み、その事象の成立条件を雑多なノイズから注意深く取り出したみたところで(=現象学的還元)、判るのはせいぜいノエス(対象物)に対するノエシス(意味作用)の構造的成立条件ぐらいなものだ。
しかも、それはあくまでもその個人にとってそのようなノエシスが発生しているというに過ぎない。
「赤いリンゴ」を見て、単純に食欲をそそられるだけの人もいれば、赤さの微妙な色合いから今年の気候がリンゴにとって恵まれた環境であったかどうかを思う人もいるだろう。
つまり、全く同一の事象であっても、人それぞれが感じる現実は異なる。
要するに、方法論的に考えてみても、個体の多様性という面を考えてみても、当たり前と言えば当たり前の話なのだが、「客観的事実」なぞというものは判りようがない。
よって、フッサール現象学はすべてのノエスを疑えと説くが、「現象」が見出されるからこそ我々は疑い得るのである。フッサール現象学にあっては、政治問題であれ、日々の雑感であれ、空想であれ、夢であれ、すべては「現象」(もしくはノエス)という等価値な分析対象であり、そこには意義的な優劣の差はない。
つまり「現象」だけは疑い得ない。「現象」だけは超越論的な性格をもつ。
この性格を、フッサールは「超越論的主観性」と呼称する。
しかし、「主観性」とは言うものの、「客観」に対峙する「主観」という意味ではぜんぜん無いのだ。
そのため超越論的”主観性”という造語は、フッサール自身の失敗だったとよく言われている。
この性格は正しくは思考『作用』であり、「主観 - 客観」構造が脱構築された一つの優れた実例である。
物心二元論をこのようなユニークな方法で超克した哲学史上の大成果は、後にハイデガーに受け継がれ、実存論的存在論の礎石ともなった。
ところで独我論のイメージを助長させている一因として、「超越論的主観性」の”主観”の意味を履き違え易い、という点が紛れも無くある。
この履き違えを看過したままフッサール現象学を読んでいくと、フッサール現象学の誇大な矜持─「現象学的還元は、学問を厳正学たらしめる唯一の手法である」と説く強弁な印象に少なからず面食らう羽目になるのだ。
こう見ると、フッサール現象学は、厳正学の手法たらんとしたことで混迷に陥ったようにも見える。
学問はさまざまな手法と方法論を取り入れながら段階的に発展するものであるのに、果たして全学問に渡って通用する普遍的方法論など存在するのだろうか?
フッサールが現象学の哲学的な意義をもっと積極的に見出し、思考『作用』から構造論的なビジョンに想像力を飛翔させていれば、フッサール現象学の今日的評価はもっと明確なものになっていたに違いない。せっかくニーチェが「神は死んだ」と看破していたにも関わらず、学術的方法論にイデア的な理想を求めるのは、哲学を退行させる愚行なのかも知れない。
(株)三菱ケミカルホールディングス 【東証1部:4188】 を買ったものの、買い値から下がるわ下がるわ。
今回の失敗は2つある。
・この株を下限域を想定して買いたい価格になったらメールが自動通知されるようにしてたのだが、設定した20銘柄のうちこの株だけが早々に通知されたの急遽買った訳だ。だが、うかつにもこのとき「日柄」というものを考慮していなかった。日経がそれほど弱い訳ではないのに、急激な下がり方をした株というのは下へ向かっての衝迫力というものがある。この点を考慮すれば、簡単に手を出すべきではなかった。
・先週「下髭」が出た株を買うように自分自身を諌めたつもりだったが、その意識が自動通知メールを設定し、その通りにメールが来たことによって薄れていた。完全に忘却した訳ではなかったにも関わらず、「買う時刻」と定めていた「14:30~15:00」の時間帯ではなく、昼時に買ってしまったのだ。これ以上は下がらぬだろうという、何の根拠もない自信があった。上述の点を考慮すれば、買える筈もなかったのだ。
…幸い、今週金曜日のチャートを見ると、日柄、下髭ともに、ベストと思われる底値サインが発生しているようだ。加えて出来高も活発になっているので、どうにかこうにか、救われそうな予感がある。
まことに株とは「時期を見計らう」精神的競技である。やっている事と言えば、安く買って高く売るという単純極まりない作業なのだが、この競技の勝利者となりその愉悦に浴するために求められるのは、第一に感情のコントールであり、第二に全体を全体として見る冷静さである。
「全体を見る株特有の分析能力」も必要なのだろうが、相場のプロでない限りそんな技量はおいそれと身に付く筈もなく、まずは物事における基本中の基本でもあろう「対象への自己態度決定能力」が最優先で求められるのだ。そしてこの基本は心構え次第で誰にでもできるのである。要は、「安いものを買いたいという欲望を、いかに宥めすかし、冷静さを取り戻すか?」「結果として買いそびれたときに、それを偶発的な事として笑って済ませるか?」が一番の肝要事なのである。
株の場合、この基本を守れるか守れないかが、結果を占う際にあまりに大きなウエイトを占める。
「物事(この場合、金)のへの執着心・熱意と、結果の成否は比例する」という根性論がそのまま成り立つような甘い世界では無いのだ。ほとんど同じ制限条件下におかれた不特定多数と行う精神的競技、しかもその行動原理は物欲にまみれたものなのだから、その都度、常にクールダウンすることが、雰囲気に飲まれず、自己を保ち続けることの秘訣なのである。
まったく、自己を保ちがたい世界なればこそ、自己を保つことこそが他者との峻別を図り、絶対少数派である勝利者となることの必須条件なのだ。
「休むも相場」という格言があって、これは長期だけでなく短期勝負についても言えることであり、この格言の本質は、まさに上述のような事を表現しているのかも知れない。
結局、十二使徒たる天才科学者たちと彼らを派遣した政府の目論見は何だったのか?
一見すると、科学者たちの奇矯な振る舞いによって派遣先の研究プロジェクトをご破算にするのが目的であるかのようである。あまりテクノロジーが発展しすぎると庶民の生活感覚と遊離してしまうため、必ずしも実益を齎すものでは無くなってしまうし、現行産業も庇護しなければならないからだというのが語り手の意見である。
しかしこの論理には明らかな矛盾がある。天才科学者たちが副産物的に産み落としていくテクノロジーの数々はまさに庶民感覚から遊離したものばかりだからだ。
つまり、「政府がテクノロジー的進捗度の調整を行うために、彼らのようなエクスパートを傀儡として飼っている」という見方はどう考えたって成立しない。ただ、結果から見ればそういう見方もできなくはないといった程度の思い付きを酒の席でぶっているだけである。作者は矛盾の理論を敢えて語り手に喋らせている訳である。十二使徒たちが本来の研究の邪魔ばかりする事になった経緯を読んでいくとどうしても「偶然」としか思えないのだ。語り手が訝るような大仰な政治的意図が彼らにあるとはどうしても思えない。
では、タイトルの「抑止力」は何を意味するか。読んだまんまの意味─「テクノロジーの抑止力」で無いことは確かだ。
むしろこの言葉は「核の無効化装置」という語り手の新しい研究にウイエトが掛かっている。「核」と「抑止力」という言葉が、さも偶然登場したかのように理解するのはあまりにも不自然すぎる。
ところで、「核における抑止力」という概念は紛れもなくアメリカの捏造物であり、核の威光を盾に諸国を蹂躙するアメリカの隠れ蓑である。アメリカの国威発揚政策は同時に世界の警察というやっかいな役目を背負い込むに至ったが、これとて旨みの方がずいぶん多い。アメリカが警察的役割を自ら進んで引き受けるのは、義務の観念からそうするのではなくもっとドロくさい国益のため=具体的には国際社会における発言力を強めるための一つの政策なのである。
これは物事の本質を糊塗する言葉としての厭らしい。
国とは本質的に自国の国益を最優先するものでありるが、独占的な権力を収めているアメリカの場合、この傾向に歯止めが掛からない。国の在り方としてこれは本質的に当たり前の話なのだろうけれど、世界的見地から見ればかなりうざったく思われている昨今である。アメリカの兵士が戦場に赴いていって数人の犠牲が出たときに、それがさも警察国家としての義務的精神が生んだ悲劇であるかのようにメディアは描きがちであるが、アメリカにおける外交政策は徹頭徹尾国益のためにそうするのであって、その結果の僅かな犠牲に何の憐憫を感じる必要があるだろうか?
兵士個人としては気の毒な話かも知れないが、それを言うなら、その数百倍の犠牲者が常に出る敵国の戦死者は気の毒ではないのか。公平なセンスで判断するならば、ここに無闇な憐憫さを持ち込むのは愚かしい認識なのだ。たとえ内心アメリカの兵士に憐憫さを感じたにせよ、それを口に出して言うのはいささか阿呆なのである。
実に不快な話であるが、アメリカが人的派遣をテロ渦巻く僻地に送るのをイバりくさり、他国にも同様にそれを求めるのは一体いかなる神経なのか?世界的警察としての対面を保つために人的派遣を行わざるを得ないアメリカの事情に、他国がなぜ付き合う必要があるのだろうか。アメリカは人的派遣を素晴らしいことのように言い、一面たしかにそういう性質はあるので表立って反論できないのをいいことに、国益最優先の具現者が、何を人道的義務などという空々しい言葉を吐けるのか。
アメリカの人的派遣に人道的意味が無いなどとどうして言えるのか、、、などとほざく輩は、一度冷静に頭を冷やして誰もが知ってるアメリカという国の現状における立場、傾向、歴史などを思い返してもらいたい。「アメリカの人的派遣に人道的意味」を積極的に肯定しなければならない必要性が幾ばくも感じられるだろうか?
このように核における抑止力の概念は欺瞞に満ちており、語り手の新しい研究が成功した暁にはこの欺瞞を払拭できるかも知れない。「抑止力=パワーバランス」という意味合いで捉えると、これを無に帰したところで本来何の支障もないはずだが、実際はそうでは無いため日米双方の国益にとって困るのである。
そこでこの試みを封じてしまおうという連中が十二使徒である。
つまり核における抑止力を妨げるものへのさらなる抑止手段である。しかし十二使徒自体にその意図が無いため、決定的な手段ではなく抑止に留まっているのである。
下記に現実と小説の関係を簡単にまとめてみた。
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(名目)核における戦争の「抑止」 ─ (実際)国益 [対応する現実A.]
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(名目)テクノロジーの発展 ─ (実際)テクノロジーの「抑止」 [小説B.]
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国益と、テクノロジーの発展は小説内では反発し合うものとして描かれている。
核とは旧来のテクノロジー=国益であった筈だが、それが最新のテクノロジーによって否定される矛盾が発生しているのである。この矛盾の象徴が「核の無効化装置」であり、A.とB.の共通する語句で且つその虚実が逆転している「抑止」─「抑止力」をタイトルの一部に掲げたのっだろう。
ところで「核の無効化装置」の研究が成功し、もしそれが実際に使用されることがあった場合、その道義的善悪を度外視すれば世界は大混乱に陥るだろう。核などという危険なものは無い方が良いに決まっているのに(…もし使われたらエラいことであり世の破滅である。実際に使われる可能性が極めて低いからという理由でこのような心配を笑う人がいるだろうが、潜在的破滅の可能性は顕在化しなければ無視しても良いのか? そんな潜在的破滅を抱え込んで人類が半永久的に存続してゆく事に何の疑問も沸かない感性はあまりに飼い慣らされていると思うのだが…)、それが無くなったことによって返って発生するであろう狂乱ぶりを想像すると、この世はなんて逆説的なんだろうと一種の感慨を覚えずにはいられない。
そう考えるとタイトルのもう一方の語句「十二使徒」にも皮肉が込められている。国益を守る側の彼らが正しいのか、「核の無効化」jを目論む語り手の方が正しいのか─。
釜底ライン+25日線上を意識したところで、運がないときはやっぱり大敗を喫するもんだ
よくよく見れば、2年チャートを見る、と甚だしく危険だったことに気づく
釜底ラインから、25日線を越えて、そのまま上昇気流にのっかる銘柄ももちろんたくさんある。
たぶん、前回買った日本ケミコンあたりは、そういう銘柄だろう
せめて、高値で買わず、ラインに無理がないレベルまで落ちたところを買うべきであった
もしそうであれば、ずいぶん軽傷で済んだ筈だ
離陸に失敗した株の末路は、このまま落ちていくのが定石だろう
サンシティ含む不動産関連のセクター自体が甚だ調子が悪く、さすがにセクター単位で見てももうそろそろ底だろうとは思うのだが…。
…一つこの失敗で思うところがある。それは、上昇するきっかけを掴み取れない株というのは、25日線上での勝負のあと、しばらく平衡状態がつづき、それ以降は出来高も値幅も縮小されるばかりで活性化されないという点である。とくに、値段がジリ賓になっているにも関わらず出来高が少なくなるというのはかなりの危険信号である。実際、ぼくはその兆候を感じあわよくば売ろうとしたにもかかわらず、もうちょっと上がってからの方がいいだろうというなスケベ心が災いして、結局今の生き地獄に至っている。
日本ケミコンとの違いは、「2年チャートを見ても今後の成長が感じられる」「出来高が桁違い」「百円単位銘柄と一万円単位銘柄の違い」など、よくよく検証してみればその差は歴然である。
どうも、ぼくは一つの理論に飛びつくと、それ以外に考えなければならない当たり前の事を軽視して大怪我を負う修正がある。株はやはり全体的な視野がないと勝てないようだ。
…以上の反省を踏まえて、釜底ラインに特にこだわらず、長い目で見れば上昇気流に明らかにのっている銘柄の落ち目を拾っていこうと思う。
ドワンゴ(3715):1年、2年チャートを見ると、これ以上大幅は下げはないだろう。ただし、短期的には2,5000あたりまで軽くいくんじゃないか…。ひょっとすると2,0000もありだが、さすがに2,5000~2,0000で買うだろう。買うにあたっては、けっこうな下髭を形成することが望ましい。今すぐにはちょっと買えない。
ADEKA(4401):ここ2日の出来高の急増を見ると、近いうちに反発期待は持てそうだ。本当は800で買いたいところだが、出来高がこのまま続けば850ぐらいで買っても良いだろう。やっぱり、今すぐにはちょっと買えない。又、全銘柄について言えることであるが、下髭の形成を待って買うべきである。
フジテレビジョン(4676):これはなかなかうまい感じである。近日中にも買い場が来てもおかしくない。166,000ぐらいで、出来高が少なくならず、かつ下髭が形成されればかなりいいのではないか。ついでに言うと下髭を重視する以上、買うのは朝ではなく昼以降である。これは買う上で必須の条件だ。
OKI(6703):う~ん、、さすがにこれは買いたい。といっても、下髭が2日連続で続いたにも関わらず、昨日、やっぱり下げてきた。次に下髭がでたら、買いでいいだろう。
長瀬産業(8012):1020以下で、下髭が出れば買い。
…日本ケミコンは、もう少し下がってから買おう。
ぼくは、涼宮ハルヒというキャラクターが、とてつもなく好きである。
京都アニメーションの高水準な作画・演出が作中ヒロインの魅力を引き立てる一因になっているのだろうが、それでなくても、やはりハルヒというキャラそれ自体が好きである。
まずキャラデザが奇跡的で、ぼくの場合、いとうのいぢ氏の原画よりもアニメの方の少し大人びた造形に魅了されてしまう。
ハルヒのような、容姿端麗・頭脳明晰・運動神経にも秀でた万能型の人間を見ると、いかに性格的な欠点があるにせよ、ここまで外面的な能力の完璧さを誇る人間の内面は実は「天真爛漫」なだけじゃないかなどと好意的な評価に傾いてしてしまうから不思議だ。
本当は傲岸不遜で高慢極まりない電波系アホ女なのであるが。
ハルヒは秋葉系ヒロインとしてはツンデレ含有率が異常に低く、一般ツンデレ水準なるものがあると仮定すると 5%ほどの数値になると思うが、この性格設定の斬新さも気に入った。
なぜ唐突にこういう事を書いたのかというと、これまた何の関連性も無い話だが最近、三島由紀夫の「仮面の告白」を読んでいて、「愛情というものは自分に似たものには決して向かないのではないか」という主人公の回想に、そうするとオレのハルヒ好きは自分に何一つ無いものをこのキャラが全て持っているからという結論になるが、果たしてそんなものなのかと半信半疑でその実験的検証をしてみたくなったからである。
ハルヒのような奴が身近にいたらまず間違いなく嫌悪するだろうし、現実的な自分の好みはもっと従順な子だったりする事を考えると、どうやらハルヒ好きの所以はそハルヒがアニメキャラである点にあるらしい。
実際、日常が罵詈雑言で溢れているのハルヒの周囲には生々しい嫌味が全然漂ってない。
よって、これは実に「楽しい」ものである。
これはアニメ特有の浄化作用の効能とでも言うべきものだろう。
アニメとは架空の現実を「言葉」や「実写映像」ではなく「絵」で再生する表現手法である。だからアニメにはそれがテーマとしないあらゆる不都合なものを最初から完全に削り去ってしまい、逆にテーマに必要なあらゆる要素を煽情的なまでに強調する優れた特性がある。
小説ではこうは都合良くいかない。小説は「言葉」によって読み手のイメージを喚起させるが、そのイメージはまさに現実の経験に寄って立つ所のものであり、個に根ざした深い印象を与えることができるものの、或る意味そのイメージは人によって微妙なばらつきがある。その「言葉」からどんな光景を人が連想しているのかは、その人にしか知り得ぬ情報である。そしてその連想のベクトルは、現実に存在するあれやこれや(幸福に浸れるような情景もあれば、目を背けたい不快なものもあるだろう)に波及するため、「楽しいか」と問われれば、楽しくはない。素晴らしく感銘を受けた面白い小説、時を忘れるほど引き込まれた小説というのは、「楽しい」小説であった試しがない。言葉は読み手のイメージを増幅させ続けるので、世界に深く引き込ませることが可能だが、本質的に物事の暗部にメスを入れるものだ。
又、実写映画は、映像文化という点で勿論アニメとかなり近い立場にある。後発のアニメは多くの場合、実写映画の映画作法を下敷きにしたものだろう。しかし実写映画の場合、素材自体が写実的であるためどんなに荒唐無稽な映像であろうとも現実と密接にリンクする部分がある。むろんこれは実写映画の優れた点であって、アニメがいくら実写的な描画やテーマを表現しようとも、所詮は単なる空想上の虚構世界であるという或る種の「軽さ」を拭い去れないだろう。
例えば、アニメが現実のリアルさを極限まで表現してみせたとしても、よくぞ”アニメで”ここまでやったという評価しか得られない筈だ。
アニメでは無いが「リアル」という漫画がある。車椅子バスケットをテーマとした恐ろしく深みのある「写実的」テーマを持った漫画である。これを読んで車椅子バスケットの現実の実演者たちに思いを馳せる事ができる。そしてそこには「リアル」という題名に負けない、まさにリアルな切実さがある。だが、これにしたって、よくぞ”漫画”でここまでやったという評価が最大の賛辞として送られる羽目になってはしないか?
ぼくは、このような賛辞を送ったって作者は顔を曇らせるだけではないのかと、勝手に想像している。
明確なテーマを持った優れた漫画は(もちろんアニメも)、同題材の映画や小説より深遠さを表現することができるという証明であるし、むろんその逆もまた然りであろう。要は、なんであれ作り手の技量に拠るという事だ。
…にも関わらず、先に述べた侮蔑的賛辞を送られるのは、これはもう、もうもはや「漫画」が紙上に描いた線画の集合体だからだ、と言うしかあるまい。表現手法が何かという問題は、本質的にテーマや作品の質に先んじて読み手に一つの態度を決定させている。つまり、”漫画”や”アニメ”は完全無欠の虚構であり、虚構が紡ぎだした”世界”であって、写実的”世界”とは根本的に異なるという態度。
これは人間が作品を鑑賞するときの媒体がなんであれ感覚器官であるから、我を忘れて鑑賞中のときでさえ、「実写」と「絵」の違いを感覚が峻別しつづけるのは当然のことである。
(小説の場合は、テープに吹き込んだ朗読であっても、文字であっても、結局、言語という特殊感覚に還元されるものであるから、これと同列に論じることはできない。)
結局、何が言いたいかというと、アニメや漫画は、この前鑑賞的感覚が齎す態度に付け込み、これが虚構であることを隠さずむしろ全面的に主張し、難しく入り組んだ現実と剥離しているという安心感のもと、そのアニメが表現したいものだけを掻い摘んで構成するというのが本質的技法ではないのか、という事だ。
そして、そのような「掻い摘んだ世界」こそが、むやみに「楽しい」アニメというものが存立し得る理由ではないのか。ぼくが、可愛い萌えアニメキャラを見て異常に心和むのは、つまりところ、キャラの絵のタッチの柔和さにあるのだ。アニメはキャラの絵のタッチが、その作品の全印象を決定付けるほど重要であり、絵のタッチだけで「楽しい」以外の(この場合、ハルヒやらき☆すたのようなアニメの事を言っているのだが)多くの要素を排除しているのである。
まさに、この「楽しい」を完璧に再現することのできる人類の表現方法は、いまのところアニメもしくはそれに類するメディアだけなのだ。これがアニメの美点でなくて何だというのだろう。
…しかし世の中には、実に偏見に満ち満ちた人間がいるもので、上のようなアニメ特有の美点を穿った目で扱き下ろし、アニメは空疎であり現実を薄めただけの取りに足らないものであるなどと、どんでもない事を言う輩がいるのだから、信じられぬ。アニメファンの中ですら、「エヴァ」には深いテーマがあるが、ハルヒやらき☆すたは、楽しいだけだからダメだなどと見当違いも甚だしい事を言う輩がいる。法外に「楽しい」世界を実現することが如何に困難か、いかに傑出した才能と努力と歴史が必要だったか、そんな事すら思い付かないのだろうかと反発を感じてしまう。その点に少しでも思いを巡らせてくれれば、ハルヒやらき☆すたが如何に価値ある作品か、感じ取ることもできるだろうに─。
なんだが、話が大きくズレてきたので、ズレついでに今後のハルヒについても占っておこう。
ハルヒが主人公のキョンへのあからさまな好意を自覚することは今後もないと断言しておく。これがあっては涼宮ハルヒはもはやハルヒで無くなってしまうからである。色恋沙汰で思い悩むハルヒなど魅力の欠片も無いし、彼女がその唯一とも言える潜在的弱点を顕在化させてしまうというのは、冒頭に挙げた能動的性格を全否定することに繋がりかねない。かといって、逆にラブモードな状態になっているハルヒはもはやツンデレでなく、もはや共感すらできない。
結局、無自覚的なキョンへの好意という微妙な匙加減が、ハルヒの猛々しさを損なうことなく一人のツンデレヒロインたらしめているといえよう。
では、そもそも、なぜツンデレは魅力的なのか。現実的に、魅力的な女性から好意を持たれたいという願望は誰にでもあるし、そういう女性は愛らしいものだが、ツンデレヒロインは、まずこの「デレ」の部分を主人公=視聴者の分身に向けることによって、その存在を主張する─と、ここまでは単に現実から仮想への単純な移行であるが、さらに秋葉系ヒロインは多くの場合「ツン」の性格を植え付けられるのである。
「ツンデレ」というのは、「葛藤する感情の二面性」であり、そこから「物語性」を発生させる磁場でもあるというのがぼくの見解である。ぼくは現実の「ツンデレ」的女は精神的に疲れるという理由で忌み嫌うのだが、アニメの「ツンデレ」は大好きだ。「ツンデレ」が魅力あるものとして成立するのは、現実の嫌味な生なましさが残らないアニメという形態においてのみである。アニメの「ツンデレ」は好意の処し方を知らずに自己を持て余しているヒロインの初心さのみをクローズアップする。この純真無垢な感じがグッと来るのである。
さて、これ以上散文的な思い付きが浮かばないので、やっとこ最初に話に戻るが、「愛情というものは自分に似たものには決して向かないのではないか」という最初問いには、Noと答えたい。「現実の嫌味な生々しさ」という言葉からの連想でヒントを得たのだが、自分とは正反対なアニメヒロインの性格を好くということは、現実の自分をどこか嫌っている部分があるとからだと気づいたからだ。
この問い自体、「自身への嫌悪のがそれとは反対のものへ傾かせた憧れ」という単純な心の機動を、無闇に拡大解釈したものであって、自分を好いている人間までもが、自分に似ているものへの愛情が沸かないなどと言うのは偏狭である。そういえば、仮面の告白の主人公も激しく自分を嫌悪していた。どちらも、「自己への嫌悪」という現実に目をつむった結果、自己保全的に発生した誤魔かしの理屈であると言えるかも知れない。