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日々感じたこと、思ったことを風化させないように、、、忘れっぽいので。
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株のやり方を根本的に帰るべき時期が来たようだ─。

売りでも、買いでも再三にわたる大損害を蒙った結果、今はまだ「儲け」を考えて動く時期ではないことを悟った。
今は株のいろはを学び、絶対にやってはいけないことや、時代の背景に合わせた取引方針とは何かを学ぶ時期なのであり、長期的にはそのような自身の才覚を涵養することを第一目的におくべき時期なのである。
確実に「儲け」を出すリズムを自身の中で掴みとるまでは、「儲け」を考えてはいけない。
たとえば、今のような激しい短期トレンドの応酬が続く相場は、才覚を磨くという意味では非常に意義のある状況であり、この相場で少なくとも「10敗/90勝/100連戦」ぐらいの実績を積まねば、失敗することは目に見える。軍資金を幾ら増やしても、これまで通り相場に吸収されてしまうだろう。
しかもこの「10敗」の中に、軍資金を大きく目減りさせるほどの大損害は一つもあってはならない。この負けは、すべて「損切りラインを徹底した結果の負け」でなければならない。

人は、6連勝もすると、すぐに楽観的な雰囲気に飲まれ、「絶対にやってはいけないこと」を安易にやってしまう。
(私の場合、つい最近、場中の決算発表があるにもかかわらず、買いを持ち越して大損害を受けた。又、寄り付き前に安易に成り売りを出し、そこから10%以上も上昇するのを黙って見ているしかなかった。)
不思議なことに、株において「絶対にやってはいけないこと」を守れないことと、自らの心理的な弱さとは直結している。

以上の反省点を踏まえ、これからの株取引のあり方を考えてみる。

1.
現状のトレンドと、自らの未熟さを省みた結果、株の「儲け」を考えていけない。
具体的には、幾ら銀行口座に余剰な給与があっても、株式資金に突っ込んではいけない。
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「絶対にやってはいけないこと」を判断できない現状においては、「軍資金を増やす=相場に吸収される資金を増やす」ことに他ならない。たとえ、10連勝したところで、11敗目に「損切り」ができないまま含み損を増大させ続けるのであれば、これはあまりにも自明の理である。
相場が安定に向かうのは、数年後のことだろう。それまでに、己が心の弱さに打ち勝っていく日々の習慣性を身に付ける必要がある。
やるべきことを淡々をやった結果、幾許か株で勝ったとしても、金を増やすのが目的でないのだ。
第一に、自制心を獲得することが目的であり、第二に株のいろはを学ぶことが主眼なのである。
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2.
株式資金が、たとえば、1000万からゼロになったとしても、笑って済ませられるように。
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再三言ったとおり、私には株のいろはの知識もなければ自制心のカケラもない。たとえ、この項に記述した方針を守ったところで、100戦の内には、思いがけない失敗が必ずある。そして、その一敗のために、株式資金がゼロになる可能性はあるのだ。
だが、その失敗は必然であり、気にすべき事象ではない。
むしろ失敗の原因を追究する機会を得た、その巡り合わせを喜ぶべきだろう。将来、シャレにならない失敗をし、返済不能な規模の借金を負うより遥かにマシなのだ、と。
そして、2度目の過ちを犯さぬよう、心がければいい。
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3.
株をやっていく以上、株をやる人間としての成長性に終わりはない。
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株を数十年もやっている人間が、1夜でスットントンになり、樹海行きになるのが株の怖さである。たとえば、信用取引で全財産を賭けた場合、2日のストップ安(高)で事足りてしまう。
しかしその人はおそらく自己を過信しすぎたのだ。「まさか」の事態が一度でも起これば、破滅を招くという自明さに目を瞑っていたのだ。「自分はこれ以上、成長できぬほどの高みに至った」と踏ん反り返っていると、冗談では無く死ぬことになる。
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4.
絶対にやってはいけないこと。
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(a).逆指値を出さないこと。
(b).逆指値の値を変えること。
(c).短期鞘取りなのに、欲を書いて「日」を跨いで持ち越すこと。(※逆にいうと、キャッチAndリリースは、1日のうちに実行すべきである!)
(d).朝、値が寄らないうちに、成り売り、成り買いを入れてしまうこと。
(e).短期鞘取りなのに、逆張りをすること。
人によって違う意見があるかも知れないが、短期鞘取りは、「順張り」に徹底すべきである。
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5.
生活資金について。
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給与、ボーナスは、そのまま残すこと。
高い買い物は、幸運にも株で「儲け」が出たら、その分を使うこと。
理想としては、全生活資金を、株の「儲け」から、捻出すること。負けた場合や、「儲け」が出なかったときのみ、給与に手を付けること。
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 …こうでもしないと、貯金ゼロ生活からは抜け出せない。
 

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ネットを散策していると、事故米の毒性が実際には問題視するレベルではない事を理由に、事故米報道に不安がる人たちを憐れんでいるブログが幾つかあった。

こういう者たちの選民的発言は、まったくろくでもないもんだと本気で思う。

事故米に対する反応には、「事故米」というレッテルを張られた米を食す気には到底なれないという、食に対する日本人としての潔癖性の部分が強く現れているのだ。無論、この潔癖性は日本人として美徳でもある。

毒性の無さを証明する様々な事例を引き合いに出し、事故米報道に不安がる人たちを小馬鹿にしたって、この現象の本質が日本人としての国民性に依拠するものである限り、甚だしく的外れな行為なのだ。
説明が、根本的な沈静化には繋がるのではないかという発想の安易さと、他人を小馬鹿にすることで自己を尊大させる心の醜さは、精神構造的に表裏一体のものであるという気さえする。

「存在と時間」の後半は、非本来性と、本来性が峻然に別たれ、本来性を取り戻すことが我々に本分であることが説かれている。
その説自体に異論は無いが、問題なのは非本来性が「公共性」と同一視され、「公共性」を否定するがために「他人」の扱いが徹底的に卑下されている点である。

そもそも「公共性」という概念自体、純粋な実存論的存在様式の考えから派生したものでなくその登場にはいささか唐突な違和感を覚える。
「公共性」の存在論的な解明のために、まずは「他人」の存在論的な解明をせねばなるまいが、ハイデガー存在論では「他人」の存在は不当に軽んじられている。

私自身にとっては「他人」もその他の存在者と同じように適在全体性の中で見出される一存在者に過ぎない。
にもかかわらず、「他人」がその他の存在者と同じようには存在していないことは、私自身の存在を考えてみれば明白であり、「他人」において発生している存在定立作用の地平を、私自身はどう足掻いても共有できないという事になる。
つまり、「他人」はハイデガー存在論の総体的な論拠さえ崩しかねない特異な存在なのである。

ハイデガー存在論のような哲学史的に斬新かつ革命的な論考であっても、或る特定の視座を得ることによって、説明しがたい矛盾は宿命的に発生するのだ。
この矛盾を断ち切るには、自身の哲学を切り離し、別の視座から眺め直す必要があるが、どんなに優れた哲学者であっても、大抵は自身の哲学の中で消化しようととする。そして半ばは理を通すことに成功するがために、それ以上の抜本的な見直しは計られない。
矛盾は理で制御することが可能であるように思えるが、その矛盾が発生した論的地平を保ちながらそれに成功するのは極めて稀だ。多くの場合、矛盾の根本的には敢えて目を背け、小さな局限的可能性に押し込めただけで御仕舞いにしているのである。

平たく言えば、ハイデガー存在論では、「他人」を論じるのは無理なのだ。

あと、「死への先駆的覚悟性」とは、如何なる実感を伴ったものなのだろうか。
本来性の究極的な形である「死への先駆的覚悟性」は、想像したり、物語という虚構の中に見出すことはできるものの、私自身の可能性として受け取るのは非常に困難である。
私自身が死を問題なく許容できる精神状態など、例えば、難病を患い、自身の可能性がいよいよもって無くなりかけた場面しか思い付かない。
むろん、これは限りなく非本来的な在り方である。そこには「先駆的覚悟性」が決定的に欠けている。

思うに、「死への先駆的覚悟性」など、よほどの超人もしくは狂人でもない限り経験できないのだ。
私自身の終局から生を限定するという発想自体は面白いが、経験できぬものを説かれても困る。

可能性がやむを得ぬ事情によって狭まり、別の可能性が切り開かれることは往々にして有り得る事だが、可能性の棄却は、被投性によって剥奪されるよりも、自身に態度によって棄却され、それとは別の可能性が選択されてこそ実存論的な意義がある。
そして、凡庸たる我々が、そのような真っ当なやり方で可能性を追求してみたところで、終局たる「死」に行き着くことは有り得ない。

死はいつまでも恐れ慄く対象であるべきだ。
そっちの方が、むしろ凡庸人としての健全な生き方である。
 

「存在と時間」の前半~中盤の内容を、簡潔にまとめてみよう。

この論考を構成する重要概念として、以下のものが挙げられる。

・実存論的存在論
・存在と存在者
・存在了解(作用)
・現存在
・存在定立作用
・我思う、故に我ありの矛盾
・世界内存在者
・適在性─意味付与作用
・道具的関連性
・没入
・意味とは自己へ収斂するもの
・目のまえ存在的な存在者
・世界の退場
・不安
・被投性
・企投
・過去─現在─未来  時間性
・可能性存在
・唯一確実な決定的可能性としての 死 (被投性ゆえの最後の結着点)
・存在的な重さからの逃避
・気分
・情態性

我々は、「世界内存在者」(フッサール現象学で言うところの「現象」)を、それと意識することなく、存在すると、認めている。いわば、存在者は、自ずから立ち現れてくる。
この存在者を存在者たらしめているという神秘は、存在了解(作用)によって齎されている。別言すれば、「存在定立作用」であり、我々にあっては、これが「存在」するという構造を支えている。
このようにその都度何らかの形で存在者を存在たらしめるという驚異の場として我々を「現存在」という。「現」には、今まさに、その都度という意味が含まれており、「現象」の「現」にも掛かっている。
デカルトは、「我思う、故に我あり」といったが、「我思う」という設問が既に前提としている条件を無反省に繰り返し言う点に、矛盾がある。
つまり、デカルトのこの言葉は、「私が腹が空くのはものを食べていないからである」、「私が不特定対象と異性関係を持ちたいのは私が男だからである」という設問と本質的には変わらない。設問に対する解答は、別の見地から行わなければ解答にならないのに、これでは何の前進もない。

我々の存在定立作用は、通常、世界内存在者を「適在性─意味付与作用」の網目の中で見出している。適在性とは、例えばトンカチがトンカチらしくモノを打つために適した形で存在しているように、公園がひと時の心の憩いを提供し得るに適した形で存在しているように、突き詰めて言えば「道具的関連性」として、存在しているということである。
各々の広い意味での道具は、それがその目的に沿って使役されればされるほどに、
世界内存在者としての様相を強めていく。
そしてモノが世界内存在者としての様相を強めていく過程では、モノはますます世界に「没入」し、それは結局、意味付与作用の現場たる「自己への収斂」する過程であり、「目のまえ存在的な存在者」としての意味は薄れ、認識の領野からはどんどん遠ざかっていく。

しかしモノが壊れ、適在性の網目から逸脱したとき、「目のまえ存在的な存在者」としての性格は瞬時に強められ、世界内存在者は、世界から退場する。世界そのものも、これによって崩れ、「世界の退場」が起こる。
もちろん、適在性の現場たる我々の方から、世界との戯れを切らざるを得ないような状況が発生したときは、「世界の退場」はモノの性質に拠ることなく、例外なしに起こる。

「世界の退場」によって、我々は「不安」に駆られる。
「不安」によって、「世界の退場」が発生するとも言える。
どちらが順序的に先かは、そのどちらも有り得るので、あまりさしたる問題では無いだろう。

「不安」は、我々が本質的に「可能性存在」であることを、強く惹起させる。
「可能性存在」とは、我々は自身の意思ではままならない「被投性」に身を置いており、その都度「
過去 (限定付けられた有限可能性の中で、選択されてきた/あるいは選択してきた生)

現在 (過去の生でさらに得た限定可能性の中で、「情態性」を手掛かりに、自己への
     関り方を決定(存在了解という名の自己決定))

未来 (限定可能性から生ずる、さらなる可能性の選択。選択によって、選択されなかった
     それまでの可能性は棄却され、「現存在」としての自己が実現される。)」
という「時間性」の中で、生きているということである。
(この時間性が、「存在と時間」というタイトルの時間の意味だと思われる。)
(余談だが、「不安」というトリガーは、フッサール現象学における「現象学的還元」に構造的な類似点がある。)

しかしながら、可能性存在としての開示は、究極の可能性としての、「唯一確実な決定的可能性としての 死(被投性ゆえの最後の結着点)」を開示せずにはおかない。
死の可能性は「存在的な重さ」であり、我々は通常この重さに耐えられないため、死の事実を忘れ、「存在的な重さからの逃避」を目論むという形で、存在している。

だが、自身の可能性をなるべく未来の展望に向かって選択することは、自身の独自の可能性を広げることであり、豊潤な生を実現する上では、不可欠な要素でもある。
我々が本質的に可能性存在であるならば、その可能性を磨くことは存在論的に崇高な意義がある筈だ。

我々が世界性の戯れの中で生きることを選ぶのか、より真摯に自己の可能性を磨くことに掛けるかは、我々の「気分」次第である。
我々は常に、気分付けられており、というのも、気分とは、どのような可能性を取捨選択するかの志向性そのものであり、このような自己の存在了解を方向付ける際の構造を「情態性」という。

ハイデガーは、「情態性」によって、饒舌、好奇心などの堕落した日常的様態が生み出されるという。しかし日常性への頑なな拒絶は、これ以降の「存在と時間」を純粋な知的興味の域から追放し、ハイデガー個人の「~であるべき」という当為の反映に偏向することになる…。

 

「存在と時間」の冒頭には、この論考の基壇を成したフッサール現象学への賛辞が掲げられている。
確かに、フッサール現象学から「存在と時間」への飛躍─つまりハイデガー存在論は、「現象学的還元」という接着点に拠って成し遂げられた哲学史上の必然的推移のように窺われる。
だが、最近発見された「存在と時間」の推敲文の内容から、実は「存在と時間」が超克しようとしたものは古代ギリシアから始まる壮大な「存在」についての哲学であり、端からそれだけを見据えて著述に臨んでおり、「現象学的還元」の効能を賞賛する冒頭部分が後から補填された継ぎ足しの文面である事が判明したのだ。

ではハイデガーは、フッサール現象学からは何の恩恵を受けなかったのか?
「現象」というものの超越論的性格から、この作用=さまざまな存在者を存在せしめるところの作用を規格するところの背景的・構造的要因にまで敷衍するという「存在と時間」の章立てを鑑みると、フッサール現象学の成果を実に有効利用しているふうに見えるため、論考上の呼び水的効果はあったと見るべきである。
フッサール現象学は、奇抜なハイデガー存在論に無理なく読者を導くための、煌びやかな誘蛾灯であった。
やはり、フッサール現象学なくしては「存在と時間」がかくも後世にまで波紋を及ぼすシロモノになる事は無かった。ハイデガーにしても、己が存在論を概念規定する際の一尺度になったことは確かだろう。

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フッサール現象学と、ハイデガー存在論を、直接的に結ぶ概念は、おそらく「現象」に対する「世界内存在(者)」であろう。この二つは、「私」を成す要因として疑うべからざる契機であり、その意味で全く同義であると考えて差し支えあるまい。ここでも、やはりフッサール現象学は活きていると思う。「世界内存在(者)」という突飛な概念だけでは、性急すぎて我々はその意図をすぐには理解しがたい。「世界内存在(者)」から受ける語感には、「現象」を存在論的に捉え直そうという意図が明らかに含まれていおり、その意図を汲めばこそ「世界内存在(者)」は容易く理解されるのだ。哲学においては、意外にも、語感と概念の一致が成果を占う重要な要素なのである。
 

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