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「存在と時間」の後半は、非本来性と、本来性が峻然に別たれ、本来性を取り戻すことが我々に本分であることが説かれている。
その説自体に異論は無いが、問題なのは非本来性が「公共性」と同一視され、「公共性」を否定するがために「他人」の扱いが徹底的に卑下されている点である。
そもそも「公共性」という概念自体、純粋な実存論的存在様式の考えから派生したものでなくその登場にはいささか唐突な違和感を覚える。
「公共性」の存在論的な解明のために、まずは「他人」の存在論的な解明をせねばなるまいが、ハイデガー存在論では「他人」の存在は不当に軽んじられている。
私自身にとっては「他人」もその他の存在者と同じように適在全体性の中で見出される一存在者に過ぎない。
にもかかわらず、「他人」がその他の存在者と同じようには存在していないことは、私自身の存在を考えてみれば明白であり、「他人」において発生している存在定立作用の地平を、私自身はどう足掻いても共有できないという事になる。
つまり、「他人」はハイデガー存在論の総体的な論拠さえ崩しかねない特異な存在なのである。
ハイデガー存在論のような哲学史的に斬新かつ革命的な論考であっても、或る特定の視座を得ることによって、説明しがたい矛盾は宿命的に発生するのだ。
この矛盾を断ち切るには、自身の哲学を切り離し、別の視座から眺め直す必要があるが、どんなに優れた哲学者であっても、大抵は自身の哲学の中で消化しようととする。そして半ばは理を通すことに成功するがために、それ以上の抜本的な見直しは計られない。
矛盾は理で制御することが可能であるように思えるが、その矛盾が発生した論的地平を保ちながらそれに成功するのは極めて稀だ。多くの場合、矛盾の根本的には敢えて目を背け、小さな局限的可能性に押し込めただけで御仕舞いにしているのである。
平たく言えば、ハイデガー存在論では、「他人」を論じるのは無理なのだ。
あと、「死への先駆的覚悟性」とは、如何なる実感を伴ったものなのだろうか。
本来性の究極的な形である「死への先駆的覚悟性」は、想像したり、物語という虚構の中に見出すことはできるものの、私自身の可能性として受け取るのは非常に困難である。
私自身が死を問題なく許容できる精神状態など、例えば、難病を患い、自身の可能性がいよいよもって無くなりかけた場面しか思い付かない。
むろん、これは限りなく非本来的な在り方である。そこには「先駆的覚悟性」が決定的に欠けている。
思うに、「死への先駆的覚悟性」など、よほどの超人もしくは狂人でもない限り経験できないのだ。
私自身の終局から生を限定するという発想自体は面白いが、経験できぬものを説かれても困る。
可能性がやむを得ぬ事情によって狭まり、別の可能性が切り開かれることは往々にして有り得る事だが、可能性の棄却は、被投性によって剥奪されるよりも、自身に態度によって棄却され、それとは別の可能性が選択されてこそ実存論的な意義がある。
そして、凡庸たる我々が、そのような真っ当なやり方で可能性を追求してみたところで、終局たる「死」に行き着くことは有り得ない。
死はいつまでも恐れ慄く対象であるべきだ。
そっちの方が、むしろ凡庸人としての健全な生き方である。