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「存在と時間」の冒頭には、この論考の基壇を成したフッサール現象学への賛辞が掲げられている。
確かに、フッサール現象学から「存在と時間」への飛躍─つまりハイデガー存在論は、「現象学的還元」という接着点に拠って成し遂げられた哲学史上の必然的推移のように窺われる。
だが、最近発見された「存在と時間」の推敲文の内容から、実は「存在と時間」が超克しようとしたものは古代ギリシアから始まる壮大な「存在」についての哲学であり、端からそれだけを見据えて著述に臨んでおり、「現象学的還元」の効能を賞賛する冒頭部分が後から補填された継ぎ足しの文面である事が判明したのだ。
ではハイデガーは、フッサール現象学からは何の恩恵を受けなかったのか?
「現象」というものの超越論的性格から、この作用=さまざまな存在者を存在せしめるところの作用を規格するところの背景的・構造的要因にまで敷衍するという「存在と時間」の章立てを鑑みると、フッサール現象学の成果を実に有効利用しているふうに見えるため、論考上の呼び水的効果はあったと見るべきである。
フッサール現象学は、奇抜なハイデガー存在論に無理なく読者を導くための、煌びやかな誘蛾灯であった。
やはり、フッサール現象学なくしては「存在と時間」がかくも後世にまで波紋を及ぼすシロモノになる事は無かった。ハイデガーにしても、己が存在論を概念規定する際の一尺度になったことは確かだろう。
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フッサール現象学と、ハイデガー存在論を、直接的に結ぶ概念は、おそらく「現象」に対する「世界内存在(者)」であろう。この二つは、「私」を成す要因として疑うべからざる契機であり、その意味で全く同義であると考えて差し支えあるまい。ここでも、やはりフッサール現象学は活きていると思う。「世界内存在(者)」という突飛な概念だけでは、性急すぎて我々はその意図をすぐには理解しがたい。「世界内存在(者)」から受ける語感には、「現象」を存在論的に捉え直そうという意図が明らかに含まれていおり、その意図を汲めばこそ「世界内存在(者)」は容易く理解されるのだ。哲学においては、意外にも、語感と概念の一致が成果を占う重要な要素なのである。