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日々感じたこと、思ったことを風化させないように、、、忘れっぽいので。
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結局、十二使徒たる天才科学者たちと彼らを派遣した政府の目論見は何だったのか?

一見すると、科学者たちの奇矯な振る舞いによって派遣先の研究プロジェクトをご破算にするのが目的であるかのようである。あまりテクノロジーが発展しすぎると庶民の生活感覚と遊離してしまうため、必ずしも実益を齎すものでは無くなってしまうし、現行産業も庇護しなければならないからだというのが語り手の意見である。

しかしこの論理には明らかな矛盾がある。天才科学者たちが副産物的に産み落としていくテクノロジーの数々はまさに庶民感覚から遊離したものばかりだからだ。
つまり、「政府がテクノロジー的進捗度の調整を行うために、彼らのようなエクスパートを傀儡として飼っている」という見方はどう考えたって成立しない。ただ、結果から見ればそういう見方もできなくはないといった程度の思い付きを酒の席でぶっているだけである。作者は矛盾の理論を敢えて語り手に喋らせている訳である。十二使徒たちが本来の研究の邪魔ばかりする事になった経緯を読んでいくとどうしても「偶然」としか思えないのだ。語り手が訝るような大仰な政治的意図が彼らにあるとはどうしても思えない。
では、タイトルの「抑止力」は何を意味するか。読んだまんまの意味─「テクノロジーの抑止力」で無いことは確かだ。

むしろこの言葉は「核の無効化装置」という語り手の新しい研究にウイエトが掛かっている。「核」と「抑止力」という言葉が、さも偶然登場したかのように理解するのはあまりにも不自然すぎる。

ところで、「核における抑止力」という概念は紛れもなくアメリカの捏造物であり、核の威光を盾に諸国を蹂躙するアメリカの隠れ蓑である。アメリカの国威発揚政策は同時に世界の警察というやっかいな役目を背負い込むに至ったが、これとて旨みの方がずいぶん多い。アメリカが警察的役割を自ら進んで引き受けるのは、義務の観念からそうするのではなくもっとドロくさい国益のため=具体的には国際社会における発言力を強めるための一つの政策なのである。
これは物事の本質を糊塗する言葉としての厭らしい。

国とは本質的に自国の国益を最優先するものでありるが、独占的な権力を収めているアメリカの場合、この傾向に歯止めが掛からない。国の在り方としてこれは本質的に当たり前の話なのだろうけれど、世界的見地から見ればかなりうざったく思われている昨今である。アメリカの兵士が戦場に赴いていって数人の犠牲が出たときに、それがさも警察国家としての義務的精神が生んだ悲劇であるかのようにメディアは描きがちであるが、アメリカにおける外交政策は徹頭徹尾国益のためにそうするのであって、その結果の僅かな犠牲に何の憐憫を感じる必要があるだろうか?
兵士個人としては気の毒な話かも知れないが、それを言うなら、その数百倍の犠牲者が常に出る敵国の戦死者は気の毒ではないのか。公平なセンスで判断するならば、ここに無闇な憐憫さを持ち込むのは愚かしい認識なのだ。たとえ内心アメリカの兵士に憐憫さを感じたにせよ、それを口に出して言うのはいささか阿呆なのである。
実に不快な話であるが、アメリカが人的派遣をテロ渦巻く僻地に送るのをイバりくさり、他国にも同様にそれを求めるのは一体いかなる神経なのか?世界的警察としての対面を保つために人的派遣を行わざるを得ないアメリカの事情に、他国がなぜ付き合う必要があるのだろうか。アメリカは人的派遣を素晴らしいことのように言い、一面たしかにそういう性質はあるので表立って反論できないのをいいことに、国益最優先の具現者が、何を人道的義務などという空々しい言葉を吐けるのか。
アメリカの人的派遣に人道的意味が無いなどとどうして言えるのか、、、などとほざく輩は、一度冷静に頭を冷やして誰もが知ってるアメリカという国の現状における立場、傾向、歴史などを思い返してもらいたい。「アメリカの人的派遣に人道的意味」を積極的に肯定しなければならない必要性が幾ばくも感じられるだろうか?

このように核における抑止力の概念は欺瞞に満ちており、語り手の新しい研究が成功した暁にはこの欺瞞を払拭できるかも知れない。「抑止力=パワーバランス」という意味合いで捉えると、これを無に帰したところで本来何の支障もないはずだが、実際はそうでは無いため日米双方の国益にとって困るのである。

そこでこの試みを封じてしまおうという連中が十二使徒である。
つまり核における抑止力を妨げるものへのさらなる抑止手段である。しかし十二使徒自体にその意図が無いため、決定的な手段ではなく抑止に留まっているのである。

下記に現実と小説の関係を簡単にまとめてみた。
*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.*.
(名目)核における戦争の「抑止」 ─ (実際)国益  [対応する現実A.]
    :
(名目)テクノロジーの発展 ─ (実際)テクノロジーの「抑止」  [小説B.]
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国益と、テクノロジーの発展は小説内では反発し合うものとして描かれている。
核とは旧来のテクノロジー=国益であった筈だが、それが最新のテクノロジーによって否定される矛盾が発生しているのである。この矛盾の象徴が「核の無効化装置」であり、A.とB.の共通する語句で且つその虚実が逆転している「抑止」─「抑止力」をタイトルの一部に掲げたのっだろう。
ところで「核の無効化装置」の研究が成功し、もしそれが実際に使用されることがあった場合、その道義的善悪を度外視すれば世界は大混乱に陥るだろう。核などという危険なものは無い方が良いに決まっているのに(…もし使われたらエラいことであり世の破滅である。実際に使われる可能性が極めて低いからという理由でこのような心配を笑う人がいるだろうが、潜在的破滅の可能性は顕在化しなければ無視しても良いのか? そんな潜在的破滅を抱え込んで人類が半永久的に存続してゆく事に何の疑問も沸かない感性はあまりに飼い慣らされていると思うのだが…)、それが無くなったことによって返って発生するであろう狂乱ぶりを想像すると、この世はなんて逆説的なんだろうと一種の感慨を覚えずにはいられない。
そう考えるとタイトルのもう一方の語句「十二使徒」にも皮肉が込められている。国益を守る側の彼らが正しいのか、「核の無効化」jを目論む語り手の方が正しいのか─。

 

 

 

 

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(登場人物)
ソニエール…初っ端に殺されたヌーヴル美術館館長。実は、シオン修道会の長。
        シオン修道会は、以下に記述したようにイエスの血脈・イエスの子孫を守るため
        の組織らしい。
ロバート…主人公。大学教授。殺されたソニエールが残した遺言にロバートの名が
       あったため、殺人犯と間違えられ、パーシュに追われる身となる。
ソフィア…ソニエールの孫。ソニエールの遺言を正しく理解していたは彼女だけだった。
        その遺言より、ソフィアとロバートは引き合わされる事になる。
パーシュ…オックスデイというキリスト教派の信者であり、刑事。
       オックスデイと、シオン修道会は、真っ向から対立している。
        大昔はシオン修道会も武道派で鳴らしていたようだが、今は割合いおとなしい。
ビリー…ロバートの親友。聖杯探しに生涯を捧げる老人。
シラス…カトリック系教派の極右集団オックスデイの鉄砲玉。

(あらすじ)
・ソニエールはオックスデイの信者であるシラスに殺されるが、絶命する間際、ソフィア宛の
 遺言に「ロバートを探せ」というメッセージを暗号文で残す。
 このためロバートは殺人犯と間違えられ、刑事であるパーシュに追われることになる。
 (※オックスデイは聖杯の破壊を目論んでおり、シラスはその在り処を問い質すために
   ソニエールを尋問した。そして、口を割らされたソニエールは、結局、シラスに
   殺されしまう。)
・シラスはソニエールの言葉どおりに、或る教会の床の下を探すが、目的のものは
 そこに無かった。
 ソニエールは死を前にして、偽情報をシラスに教えたのだ。
・ソニエールの遺言により引き合わされたロバートとソフィアは、ヌーブル美術館の絵画
 の裏から百合の紋章を見つ出した。それは、ソニエールがシオン修道会のメンバーである
 ことの明かしだった。
 紋章は貸し金庫の鍵として細工されており、2人は金庫の中から聖杯への手掛かりを
 手に入れる。
・その後2人は、ロバートの旧友、ビリーの協力を得る。
  (…どういう理屈か判らんが、このとき2人は連続殺人犯の犯人に仕立て上げられ
  ている。)
・ビリーの口から、聖杯とはカップのことではなく、イエスの妻の亡骸である事が判明。
 そして、この事実を世が知れば、イエスを神の子と崇めるカトリック教派は権威を失墜
 させる事になると指摘。
・さらに、いろいろあって、ソニエールの殺害に関わった黒幕は、ビリーだったことが判明。
 ビリーは、オックスデイとは真逆の思想を持ちながら、オックスデイの中枢に入り込み、
 スパイ行為を働いていたのだ。
  つまり、ビリーはカトリック教派の欺瞞を知りながら、それを暴こうとしない穏健派の
 ソニエールたちが許せなかったようである。
 長門有希と朝倉涼子の関係のようだ。
・スパイ行為に気づいたパシューは、ビリーを連行する。ほったらかしにされた2人は
 再び聖杯巡りの旅路へ。
・たどり着いたのは、ソフィアの生まれ故郷。そこではイエスの子孫とシオン
 修道会縁のものたちがひっそりと暮らしていた。
 …要は、ソフィアもイエスの血脈を受け継いでいたのである。
・あとは…もう、なんかぐだぐたな感じ。

(感想)
最後になるほど、ぐだぐだ感が増してきたように思う。
オックスデイが聖杯を破壊しようとした(イエスの妻の亡骸を処分しようとした)のは、
カトリック教派の権威を守るためであり、逆にビリーが聖杯を求めたのは、その
権威を失墜させんがため、ということらしい。
(イエスは神の子なので、人にあらず、子作りなんかする訳がない、、という
カトリック教派の教義が嘘だったことになるから。)

しかし、イエスの子孫らは、最後にぞろぞろとエキストラさながらに
湧いて出るのである…。
彼らがいる以上、彼らの口から事実が公表されれば、オックスデイの企みなど
全くの水泡に帰すのではないか。

さらに、イエスの妻の亡骸が見つかった場合、それをどうやって「イエスの妻で
あったか」を証明できるのか、その手法が全く説明されていない。
ここが、当作品の一番不可解な点であり、ストーリー上の構成を欠いているとも
思われる点である。

仮に、DNA鑑定によって、その亡骸とソフィアの血の繋がりが証明されたとしよう。
だが、その亡骸の夫がイエスであると、どうやったら証明できるのか。
夫と妻が遺伝的に別個の人間である限り、DNA鑑定での立証は不可能である。

つまり、オックスデイの側から見れば、イエスの子孫の存在も、イエスの妻の亡骸も、
同じように危険ではあるが、権威を失墜させるほどのインパクトはない。
翻って言うと、単に亡骸だけに固執しただけでは意味がない。
物語のストーリー上、オックスデイはイエスの子孫が要ることを知らなかったと見えるが、
それにしても聖杯を巡る彼らの暗躍が、元来あまり意味を成さないものだった事を思うと、
多少の同情を禁じえない。
ストーリーに必然性を持たせるためには、オックスデイによる、イエスの子孫狩りという
ファクターが必須であったように感じる。
両方潰せば、これは確かに少し安心できる。

同じ理由で、ビリーが「イエスの妻の亡骸」にあれほど固執する必然性がよく判らない。
聖杯探しに生涯を捧げた老人の意地であろうか…。

あと、ソニエールが何故ソフィアをロバートに託す気になったか、結局何の解説もなかった。
両者は疎遠だったらしいから、単にロバートの暗号解析能力が買われたということで良い
のだろうか。

映画としては、細かい演出上のまずさもあって、まぁまぁ見れたがもっと良くなったのでは?
という感じの評価である。

抜粋①『僅かな燭台の灯で照らされた広間の暗さは、小座敷の暗さと濃さが違う。
(…中略…)
諸君はこう云う「灯に照らされた闇」の色を見たことがあるか。それは夜道の闇などとは何処か違った物質であって、たとえば一と粒一と粒が虹色のかがやきを持った、細かい灰に似た微粒子が充満しているもののように見えた。私はそれが眼の中へ這り込みはしないかと思って、覚えず瞼をしばだたいた。』

抜粋②『屋内の「眼に見える闇」は、何かチラチラとかげろうものがあるような気がして、幻覚を起こし易いので、或る場合には屋外の闇よりも凄味がある。
魑魅とか妖怪変化とかと跳躍するのはけだしこう云う闇であろうが、その中に深い帳を垂れ、屏風や襖を幾重にも囲って住んでいた女と云うのも、やはりその魑魅の眷属ではなかったか。』

抜粋③『われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自ずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。』

抜粋④『然るに進取的な西洋人は、常により良き状態を願ってやまない。蝋燭からランプに、ランプから瓦斯燈に、瓦斯燈から電燈にと、絶えず明るさを求めて行き、僅かな陰をも払い除けようと苦心をする。』

まるで埴谷雄高氏の死霊を思わせる抜粋①の広間の「闇」は、悠久なるモノ特有の不気味な光彩を放っているが、抜粋②を読みに及び、それは魑魅魍魎の眷属を幻視しかねない程に狂気じみた畏怖を与えんとするものであると述べられている。

抜粋③のように、日本人は衣・食・住のあらゆる生活面に「闇」を見出し、闇の中に悠久なる「幽玄美」を見出したが、幽玄美は当然のこととして現世を生きる我々に「死」を薄らと予感させるものである。

漆器や大仏殿の装飾は幽玄美であるが、抜粋①②は美とは呼べず、この違いは何故かというと、やはり実在するモノと陰翳が巧く調和していないからであろう。

無限の時を内包するかの如き陰翳は、現世のモノを映え立たせ、そこに陰翳美が宿る。よってこの種の美における、陰翳の優位性は否定できない。
ところが、陰翳が極度に充満した空間では、幽玄美となりえた可能性=調和の可能性が棄却され、実在のモノに対する闇の逼迫、という構図が成り立つ。ゆえに我々はこれに戦慄を覚えるのである。
しかしながら、この広間の例のように、モノと陰翳の関係が弱々しくも成立する以上、これはこれで美の亜種には違いなく、「戦慄美」というのはこれのことを云うのではあるまいか。

完全な闇、というものも確かに恐ろしいものだが、それはまず第一に身じろぎ一つできぬ状況に対する恐れであるとともに、外の世界と自己との関連がプッツリと途絶された事への恐れである。
錯乱した精神が連想する死や魑魅の観念は、直接、自己それ自体を押しつぶすのであって、哲学的な意味は見出し得るが、ここに美的な要素は介在しない。

古人により発展し尽くされた幽玄美は、日本の美と言い換えても差し支えなく、日本美の特徴を言い表す語句としての「もののあわれ」、や、「わびさび」が、或る種、生への諦観を連想させるのも頷ける。文化の大多数は、不安や恐れを誤魔化すための稀有壮大な代替行為であるという説もあるくらいだ。

─抜粋④であるが、たしかに西洋の生活では陰翳を遠ざけようとする兆候があると思われるし、生活がその土地の美に直結するのも既に述べた通りである。

しかし、美とは不思議なもので、その土地の衣・食・住に馴染めない文化でさえ、そこから発展した美術品の品々については、我々は確かに美しいと感じるのである。もっと云えば、極めて前衛的な画家や工芸家の作品のように、まったく土地柄を感じさせない美の領域が現に成り立っている。
このように考えると、陰翳に対する日本人の態度決定が西洋人に理解されないにしろ、陰翳美までが全く理解されないように思うのは実は誤りなのである。

現実的なモノへの好悪の感情、評価を度外視し、そのモノから形取られた美は、遠く隔たった地においても独自に成立してしまう。文明の営みから生まれた美は、もはや、そのモノへの遡行を拒む程に即自的な強さを秘めているのである。

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