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『美─美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ!(a.) つまり、杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。(b.)なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ。(c.)美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。(d.) 俺は無教育だけど、この事はずいぶん考え抜いたものだ。(e.)実に神秘は無限だなあ!(f.) この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめているよ。(g.) この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。(h.) ああ美か!(i.) 俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母(マドンナ)の理想を懐いて踏み出しながら、結局悪行(ソドム)の理想をもって終るという事なんだ。(j.) いや、まだまだ恐ろしい事がある。(k.) つまり悪行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。(l.) いや実に人間の心は広い、あまり広過ぎるくらいだ。俺は出来る事なら少し縮めてみたいよ。(m.) ええ畜生、何が何だか分かりゃしない、本当に! (n.) 理性の眼で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。(o.) 一体悪行(ソドム)の中に美があるのかしらん?(p.) ・・・ …しかし、人間て奴は自分の痛いことばかり話したがるものだよ。(q.) 』
上文は、仮面の告白の本章にある言葉ではなく、序文として掲げられたドストエフスキィ著の「カラマーゾフの兄弟」よりの抜粋文である。
小説の台詞というものを考えるとき、あまりにもそのエッセンスが詰まっているように感じたので、これも考察の対象としたい。
(a.)
・ 「美─美という奴は」 … 「美─」の「─」は、言葉を区切ることにより、その台詞に間が置かれたことを示す。
「─」の使い方は様々だろうが、共通して言えるのは、語り部が強調したい命題を表すという点である。
「美─」に続く文章の最終端は「!」で締められており、「─」と「!」という類似の作用が共に合わさって『相乗効果』を生み出している。
(b.)、(c.)
・(b.)は(a.)の印象が強烈であるため割と落ち着いた感じに映る。だが、この「落ち着いた」感じは、(c).の文章を見ると策略的であるとしか思えない。(c).の語尾「ものなあ。」は『詠嘆調』であるもの、(a.)ほどのインパクトは無い。(a.)が『激情の迸り』により発せられた言葉だとしたら、(c).は落ち着いた印象の(b.)を間に置くことにより、幾分の理知を回復しつつそれでも激情の『余韻』を払拭できない─そんな精神の機微を表現している。この『余韻』を醸し出すための下拵えとして(a.)および(b.)がある。
(d.)
感情の吐露であるが故に抽象的でもあった文章に、具体的な観念がここで込められる。
(a).~(c).で終わっては、やはり明朗さに欠ける面がある。その不足が(d.)で補われ、一つの文節がこれで完結するのである。
(e.)
一つの文節であった(a.)~(d.)が終わり、新たな文節を区切るに当たって主語が「俺は」である。ガラリと印象の違う一人称を登場させることにより、文節の区切りがより際立って見える。(『文節の区切りにおける主語の差異化』)
(f.)
ここでも又「なあ!」系の感嘆詞である。以降、ドストエフスキー特有の感嘆詞が止め処もなく押し寄せる。このような癖ある言葉の乱用は通常その文の格調を貶めてしまうが、この作家の天分はその癖を文体の調律をもって仕立て直し、語部のアツい激情を読み手に共振させるための一種の「装置」を作中に現前せしめるのである。
そして、この成功の一要因は、(e.)の例にも見れるように、文節の区切り方の非凡なる巧みさにあるだろう。
(g.)
ここも注目すべきはその語尾である。「いるよ。」─つまりこれまでに出なかった語尾「よ。」で終わらせている。思想や感情の吐露としての台詞と、現状への純粋な認識としての台詞にも、このような差異がある。言うなれば、『語られるモノのカテゴリーをそれと無く読み手に悟らせるための語尾の使い分け』である。
(h.)
美の神秘なる性質を殊更に表現するために「水に濡れる」という直感に訴えかけるような例え話を持ち出している。昔から言われていることだが、或る事柄の性質を殊更に形容するときは、人間の五感に絡むような表現を駆使すると良いとされてきた。・・・成る程、これは確かに論理的も納得できる尤もな説である。
しかし、この部分の形容は「神秘性を感覚的に表す」という意味において適切な表現であるが、読み手を唸らせるほどではない。或る事柄の形容方法について言えば、現代の作家たちの方が、思わず心の襞を抉り出されるかのような斬新かつ包括的な、様々の成功を収めている。優れた現代の作家たちと一昔前の作家たちを比較したとき、文芸上の進化が明瞭に見てとれると思うのはこの点である。現代の作家の優れた形容表現には、論理的な言葉を使っていないにも関わらず哲学的であり、個人の価値観や思想が実に簡潔な数行で凝縮されているように思える事が度々ある。もっとも前衛的な作家の場合、その表現方法自体が、過去の文芸が意図せずして生み出した型枠への問題提起だったりする事さえある。
一見、論理的に見える定説というものは、意欲的実験作によって打ち破られることが稀にあるのだ。
よく、誰もが納得できるような小説読本なるものがあり、それ自体は何ら批判を差し挟むようなものではないのだが、心理学的あるいは哲学的な創意ある逆説から、これらを覆す想像力の爆発が発生するのである。
話が大きく逸脱してしまうことになるが、これが小説読本の一つの意義の有る使い方である。その逆説が思いつきの浅はかなものでなく、小説の構造の根本から考え直す求心力があれば、小説の新しい形を示したり、そこまではいかなくとも、自分なりの表現方法というものを確立するに契機になるだろう。
三島由紀夫も谷崎潤一郎も筒井康隆も、それまでに無かった小説の新しい形を提唱し得たという意味で、文学史上の偉大なる変節点であるに違いない。私がこれらの作家に惹かれるのは、第一に彼らが何人も真似できぬ独自性を発揮し続けるからであるが、翻って思えば彼らは「誰もやってなかったこと」の成功者であり、小説の裾野を孤軍奮闘のすえ拡大させたのだから、その仕事には途方もない価値がある。
(埴谷雄高もその文体に惹かれるし、「死霊」が何かトテツモナイ小説だということを直感が訴えてくるのだが、内容が難しいというイメージがあるせいかまともに読んだことがない。kubitakeoの名がこのブログのURLになったほどに登場人物への思い入れがあるにも関わらず、どんな小説か解説できるほど読み込んでない。いつかこのブログ上でまともな感想を載っけたいものだ。)
(i.)以降
『接頭詞が実に多彩』である事に注目したい。これは端的にいうと、読み手を飽きさせず、次の文章への期待感を持続させる効果がある。
(…という紋切り型の評価も、(h.)の小説読本に関する考察に則って考えれば、こういう指摘で終わるだけでは意味がないのだ。これの進化形がまだ実現され得ぬ可能性として眠っているかも知れない。…とはいえ、何事につけても、基本は大事である。基本の習得なしに逆説的独創性が生まれる訳がない。だから、上述の偉大なる仕事をやってのけた小説家たちは単に独自性があるというだけでなく小説を著述する上での一般的な技能においても抜きん出ているのである。血気に走ってこの勘所を忘却すると見るに耐えぬ粗悪なものが出来るに違いない。)
(q.)
この台詞全体を締めくくる最後の言葉として、素晴らしく抑えが効いている。この辺は見事という他はない。
激情に駆られ喋り倒した男が、ふと我に返って(おそらくは)半ば照れくさそうに言い訳をするという…この『精神の機微を感じさせる人間臭さ』が堪らない魅力を添えている。
たぶんこのような文体を書くために利用可能な学問の筆頭は心理学だろう。台詞というのは多くの場合感情の吐露である訳で、説明的な描写をそのまま棒読みのように記述しても糞面白くないこと甚だしい。
なので今後は、心理学関連の本にも食指をのばしてみたい。
ブログの初文─「陰翳礼賛」の感想を纏める折、我が文才の無さ加減を否応なく自覚する羽目となった。
まさに今、他に巧い言い回しが無いものかと脳襞を隈なく睨め回すこと幾十重、あげく何も得ず霊感的なヒラメキに身をやつすのをジッと待ち侘びている次第である。
ふいに、文章というものを研究してみようかと思い立った。ブログで徐々に更新するテーマとしては1日に費やす時間的な間尺も程良い。
今という時代は昔に比べ文章を磨ぐための環境が整っている。例えばネットで検索できる類語辞典などは強力無比なツールであろう。
小説家というものに憧れた一時期、筒井康隆や夢野久作など稀有壮大なスケールの作家の傑作群を読み耽った記憶がある。
憧れに近づくための第一歩はまぎれもなく真似事であり、習練というのは一歩どころか生涯を賭して真似事に徹する事であろうが、人間は何処かに創造的な一面を持っており、あるとき飽き足らずに自身の創意を真似事に塗したてみたいと駆られるのである。
作家の文体は、余程の天分か、想像を絶する幾多の真似事の果てに独自の洗練を見たに違いなく、これを少しでも自分の中に取り込まないのは大変もったいないと思うのである。
むろん、これは何にだって云える訳だが、今こう思えるのはやはりブログが契機となっている。
ブログと似た著述に日記という形態がある。だがこの両者では成立要件が根本的に違う。
日記は密かにしたためるものだが、ブログは「人の目に晒される」ことで著述という行為に緊張感を与え、以って意識的で深い内省を書き手に喚起せしめ、日記では忘れ勝ちになる「他者」の存在に目を向けさせる。
実のところ、日記であろうが何であろうが、自分のためだけに書かれた文章などこの世には存在しない。
あるとすれば完全に自己との対話を自己内だけで完結させた病理的な精神だけであろう。
精神病理患者が書いた文書が支離滅裂であるように、他者を度外視した文章はどんどん曖昧になってゆく。
つまり逆に言うと、「他者」は著述においての前提ですらあって、これを絶妙な匙加減で実現しているのがブログという体系なのだろう。
…と前置きはこれまでにして、まずは「豪華絢爛」とも「音楽的な旋律を奏でるかのよう」とも評される三島由紀夫の文章を分析する。三島由紀夫の数ある作品群の中でも一番印象に残っている「仮面の告白」から抜粋していこうと思う。
中期保有と云いながら、週の初めに買った日本ケミコンを売っ払った。
これでも利潤が乗り続ける株をリリースするタイミングとしてはよく我慢した方だ。
結果は、+10万円。
買う前のしょぼすぎる総資金が40万円なので、総資金の1/4の利益を一週間と待たずに、稼いだことになる。
効率から云うと過去の取引では最大の成功かも知れない。
さらに、釜底銘柄を狙ってみよう。サンシティが、良さげである。
25日平均線を超えたあたりから、ジワリと出来高が多くなっており、値幅も変動がやや激しくなってきている。
(※この一週間で、25日平均線を超えても、出来高や値幅に何の変動もない銘柄は、いくら釜底ラインを形成していようとも無視するのが得策できると気づいた。)
理不尽に強い最近の日経平均だが、明日にでも下がってくれれば買いのチャンスだと思う。
三菱レイヨンも下げれば引き続き狙い目かも知れない。
熊谷組は、、、もともときれいなラインでは無かったせいか、今から買うのは躊躇する。
アメリカも今日はそんなに強くないので、明日の買い場に期待である。
買ったところから、7%の上昇。
こんなにすぐに結果が出るのは、最近では極めて珍しい。
最初の予定通り、中期保有の予定。
(登場人物)
ソニエール…初っ端に殺されたヌーヴル美術館館長。実は、シオン修道会の長。
シオン修道会は、以下に記述したようにイエスの血脈・イエスの子孫を守るため
の組織らしい。
ロバート…主人公。大学教授。殺されたソニエールが残した遺言にロバートの名が
あったため、殺人犯と間違えられ、パーシュに追われる身となる。
ソフィア…ソニエールの孫。ソニエールの遺言を正しく理解していたは彼女だけだった。
その遺言より、ソフィアとロバートは引き合わされる事になる。
パーシュ…オックスデイというキリスト教派の信者であり、刑事。
オックスデイと、シオン修道会は、真っ向から対立している。
大昔はシオン修道会も武道派で鳴らしていたようだが、今は割合いおとなしい。
ビリー…ロバートの親友。聖杯探しに生涯を捧げる老人。
シラス…カトリック系教派の極右集団オックスデイの鉄砲玉。
(あらすじ)
・ソニエールはオックスデイの信者であるシラスに殺されるが、絶命する間際、ソフィア宛の
遺言に「ロバートを探せ」というメッセージを暗号文で残す。
このためロバートは殺人犯と間違えられ、刑事であるパーシュに追われることになる。
(※オックスデイは聖杯の破壊を目論んでおり、シラスはその在り処を問い質すために
ソニエールを尋問した。そして、口を割らされたソニエールは、結局、シラスに
殺されしまう。)
・シラスはソニエールの言葉どおりに、或る教会の床の下を探すが、目的のものは
そこに無かった。
ソニエールは死を前にして、偽情報をシラスに教えたのだ。
・ソニエールの遺言により引き合わされたロバートとソフィアは、ヌーブル美術館の絵画
の裏から百合の紋章を見つ出した。それは、ソニエールがシオン修道会のメンバーである
ことの明かしだった。
紋章は貸し金庫の鍵として細工されており、2人は金庫の中から聖杯への手掛かりを
手に入れる。
・その後2人は、ロバートの旧友、ビリーの協力を得る。
(…どういう理屈か判らんが、このとき2人は連続殺人犯の犯人に仕立て上げられ
ている。)
・ビリーの口から、聖杯とはカップのことではなく、イエスの妻の亡骸である事が判明。
そして、この事実を世が知れば、イエスを神の子と崇めるカトリック教派は権威を失墜
させる事になると指摘。
・さらに、いろいろあって、ソニエールの殺害に関わった黒幕は、ビリーだったことが判明。
ビリーは、オックスデイとは真逆の思想を持ちながら、オックスデイの中枢に入り込み、
スパイ行為を働いていたのだ。
つまり、ビリーはカトリック教派の欺瞞を知りながら、それを暴こうとしない穏健派の
ソニエールたちが許せなかったようである。
長門有希と朝倉涼子の関係のようだ。
・スパイ行為に気づいたパシューは、ビリーを連行する。ほったらかしにされた2人は
再び聖杯巡りの旅路へ。
・たどり着いたのは、ソフィアの生まれ故郷。そこではイエスの子孫とシオン
修道会縁のものたちがひっそりと暮らしていた。
…要は、ソフィアもイエスの血脈を受け継いでいたのである。
・あとは…もう、なんかぐだぐたな感じ。
(感想)
最後になるほど、ぐだぐだ感が増してきたように思う。
オックスデイが聖杯を破壊しようとした(イエスの妻の亡骸を処分しようとした)のは、
カトリック教派の権威を守るためであり、逆にビリーが聖杯を求めたのは、その
権威を失墜させんがため、ということらしい。
(イエスは神の子なので、人にあらず、子作りなんかする訳がない、、という
カトリック教派の教義が嘘だったことになるから。)
しかし、イエスの子孫らは、最後にぞろぞろとエキストラさながらに
湧いて出るのである…。
彼らがいる以上、彼らの口から事実が公表されれば、オックスデイの企みなど
全くの水泡に帰すのではないか。
さらに、イエスの妻の亡骸が見つかった場合、それをどうやって「イエスの妻で
あったか」を証明できるのか、その手法が全く説明されていない。
ここが、当作品の一番不可解な点であり、ストーリー上の構成を欠いているとも
思われる点である。
仮に、DNA鑑定によって、その亡骸とソフィアの血の繋がりが証明されたとしよう。
だが、その亡骸の夫がイエスであると、どうやったら証明できるのか。
夫と妻が遺伝的に別個の人間である限り、DNA鑑定での立証は不可能である。
つまり、オックスデイの側から見れば、イエスの子孫の存在も、イエスの妻の亡骸も、
同じように危険ではあるが、権威を失墜させるほどのインパクトはない。
翻って言うと、単に亡骸だけに固執しただけでは意味がない。
物語のストーリー上、オックスデイはイエスの子孫が要ることを知らなかったと見えるが、
それにしても聖杯を巡る彼らの暗躍が、元来あまり意味を成さないものだった事を思うと、
多少の同情を禁じえない。
ストーリーに必然性を持たせるためには、オックスデイによる、イエスの子孫狩りという
ファクターが必須であったように感じる。
両方潰せば、これは確かに少し安心できる。
同じ理由で、ビリーが「イエスの妻の亡骸」にあれほど固執する必然性がよく判らない。
聖杯探しに生涯を捧げた老人の意地であろうか…。
あと、ソニエールが何故ソフィアをロバートに託す気になったか、結局何の解説もなかった。
両者は疎遠だったらしいから、単にロバートの暗号解析能力が買われたということで良い
のだろうか。
映画としては、細かい演出上のまずさもあって、まぁまぁ見れたがもっと良くなったのでは?
という感じの評価である。