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「存在と時間」の前半~中盤の内容を、簡潔にまとめてみよう。
この論考を構成する重要概念として、以下のものが挙げられる。
・実存論的存在論
・存在と存在者
・存在了解(作用)
・現存在
・存在定立作用
・我思う、故に我ありの矛盾
・世界内存在者
・適在性─意味付与作用
・道具的関連性
・没入
・意味とは自己へ収斂するもの
・目のまえ存在的な存在者
・世界の退場
・不安
・被投性
・企投
・過去─現在─未来 時間性
・可能性存在
・唯一確実な決定的可能性としての 死 (被投性ゆえの最後の結着点)
・存在的な重さからの逃避
・気分
・情態性
我々は、「世界内存在者」(フッサール現象学で言うところの「現象」)を、それと意識することなく、存在すると、認めている。いわば、存在者は、自ずから立ち現れてくる。
この存在者を存在者たらしめているという神秘は、存在了解(作用)によって齎されている。別言すれば、「存在定立作用」であり、我々にあっては、これが「存在」するという構造を支えている。
このようにその都度何らかの形で存在者を存在たらしめるという驚異の場として我々を「現存在」という。「現」には、今まさに、その都度という意味が含まれており、「現象」の「現」にも掛かっている。
デカルトは、「我思う、故に我あり」といったが、「我思う」という設問が既に前提としている条件を無反省に繰り返し言う点に、矛盾がある。
つまり、デカルトのこの言葉は、「私が腹が空くのはものを食べていないからである」、「私が不特定対象と異性関係を持ちたいのは私が男だからである」という設問と本質的には変わらない。設問に対する解答は、別の見地から行わなければ解答にならないのに、これでは何の前進もない。
我々の存在定立作用は、通常、世界内存在者を「適在性─意味付与作用」の網目の中で見出している。適在性とは、例えばトンカチがトンカチらしくモノを打つために適した形で存在しているように、公園がひと時の心の憩いを提供し得るに適した形で存在しているように、突き詰めて言えば「道具的関連性」として、存在しているということである。
各々の広い意味での道具は、それがその目的に沿って使役されればされるほどに、
世界内存在者としての様相を強めていく。
そしてモノが世界内存在者としての様相を強めていく過程では、モノはますます世界に「没入」し、それは結局、意味付与作用の現場たる「自己への収斂」する過程であり、「目のまえ存在的な存在者」としての意味は薄れ、認識の領野からはどんどん遠ざかっていく。
しかしモノが壊れ、適在性の網目から逸脱したとき、「目のまえ存在的な存在者」としての性格は瞬時に強められ、世界内存在者は、世界から退場する。世界そのものも、これによって崩れ、「世界の退場」が起こる。
もちろん、適在性の現場たる我々の方から、世界との戯れを切らざるを得ないような状況が発生したときは、「世界の退場」はモノの性質に拠ることなく、例外なしに起こる。
「世界の退場」によって、我々は「不安」に駆られる。
「不安」によって、「世界の退場」が発生するとも言える。
どちらが順序的に先かは、そのどちらも有り得るので、あまりさしたる問題では無いだろう。
「不安」は、我々が本質的に「可能性存在」であることを、強く惹起させる。
「可能性存在」とは、我々は自身の意思ではままならない「被投性」に身を置いており、その都度「
過去 (限定付けられた有限可能性の中で、選択されてきた/あるいは選択してきた生)
:
現在 (過去の生でさらに得た限定可能性の中で、「情態性」を手掛かりに、自己への
関り方を決定(存在了解という名の自己決定))
:
未来 (限定可能性から生ずる、さらなる可能性の選択。選択によって、選択されなかった
それまでの可能性は棄却され、「現存在」としての自己が実現される。)」
という「時間性」の中で、生きているということである。
(この時間性が、「存在と時間」というタイトルの時間の意味だと思われる。)
(余談だが、「不安」というトリガーは、フッサール現象学における「現象学的還元」に構造的な類似点がある。)
しかしながら、可能性存在としての開示は、究極の可能性としての、「唯一確実な決定的可能性としての 死(被投性ゆえの最後の結着点)」を開示せずにはおかない。
死の可能性は「存在的な重さ」であり、我々は通常この重さに耐えられないため、死の事実を忘れ、「存在的な重さからの逃避」を目論むという形で、存在している。
だが、自身の可能性をなるべく未来の展望に向かって選択することは、自身の独自の可能性を広げることであり、豊潤な生を実現する上では、不可欠な要素でもある。
我々が本質的に可能性存在であるならば、その可能性を磨くことは存在論的に崇高な意義がある筈だ。
我々が世界性の戯れの中で生きることを選ぶのか、より真摯に自己の可能性を磨くことに掛けるかは、我々の「気分」次第である。
我々は常に、気分付けられており、というのも、気分とは、どのような可能性を取捨選択するかの志向性そのものであり、このような自己の存在了解を方向付ける際の構造を「情態性」という。
ハイデガーは、「情態性」によって、饒舌、好奇心などの堕落した日常的様態が生み出されるという。しかし日常性への頑なな拒絶は、これ以降の「存在と時間」を純粋な知的興味の域から追放し、ハイデガー個人の「~であるべき」という当為の反映に偏向することになる…。
ぼくは、涼宮ハルヒというキャラクターが、とてつもなく好きである。
京都アニメーションの高水準な作画・演出が作中ヒロインの魅力を引き立てる一因になっているのだろうが、それでなくても、やはりハルヒというキャラそれ自体が好きである。
まずキャラデザが奇跡的で、ぼくの場合、いとうのいぢ氏の原画よりもアニメの方の少し大人びた造形に魅了されてしまう。
ハルヒのような、容姿端麗・頭脳明晰・運動神経にも秀でた万能型の人間を見ると、いかに性格的な欠点があるにせよ、ここまで外面的な能力の完璧さを誇る人間の内面は実は「天真爛漫」なだけじゃないかなどと好意的な評価に傾いてしてしまうから不思議だ。
本当は傲岸不遜で高慢極まりない電波系アホ女なのであるが。
ハルヒは秋葉系ヒロインとしてはツンデレ含有率が異常に低く、一般ツンデレ水準なるものがあると仮定すると 5%ほどの数値になると思うが、この性格設定の斬新さも気に入った。
なぜ唐突にこういう事を書いたのかというと、これまた何の関連性も無い話だが最近、三島由紀夫の「仮面の告白」を読んでいて、「愛情というものは自分に似たものには決して向かないのではないか」という主人公の回想に、そうするとオレのハルヒ好きは自分に何一つ無いものをこのキャラが全て持っているからという結論になるが、果たしてそんなものなのかと半信半疑でその実験的検証をしてみたくなったからである。
ハルヒのような奴が身近にいたらまず間違いなく嫌悪するだろうし、現実的な自分の好みはもっと従順な子だったりする事を考えると、どうやらハルヒ好きの所以はそハルヒがアニメキャラである点にあるらしい。
実際、日常が罵詈雑言で溢れているのハルヒの周囲には生々しい嫌味が全然漂ってない。
よって、これは実に「楽しい」ものである。
これはアニメ特有の浄化作用の効能とでも言うべきものだろう。
アニメとは架空の現実を「言葉」や「実写映像」ではなく「絵」で再生する表現手法である。だからアニメにはそれがテーマとしないあらゆる不都合なものを最初から完全に削り去ってしまい、逆にテーマに必要なあらゆる要素を煽情的なまでに強調する優れた特性がある。
小説ではこうは都合良くいかない。小説は「言葉」によって読み手のイメージを喚起させるが、そのイメージはまさに現実の経験に寄って立つ所のものであり、個に根ざした深い印象を与えることができるものの、或る意味そのイメージは人によって微妙なばらつきがある。その「言葉」からどんな光景を人が連想しているのかは、その人にしか知り得ぬ情報である。そしてその連想のベクトルは、現実に存在するあれやこれや(幸福に浸れるような情景もあれば、目を背けたい不快なものもあるだろう)に波及するため、「楽しいか」と問われれば、楽しくはない。素晴らしく感銘を受けた面白い小説、時を忘れるほど引き込まれた小説というのは、「楽しい」小説であった試しがない。言葉は読み手のイメージを増幅させ続けるので、世界に深く引き込ませることが可能だが、本質的に物事の暗部にメスを入れるものだ。
又、実写映画は、映像文化という点で勿論アニメとかなり近い立場にある。後発のアニメは多くの場合、実写映画の映画作法を下敷きにしたものだろう。しかし実写映画の場合、素材自体が写実的であるためどんなに荒唐無稽な映像であろうとも現実と密接にリンクする部分がある。むろんこれは実写映画の優れた点であって、アニメがいくら実写的な描画やテーマを表現しようとも、所詮は単なる空想上の虚構世界であるという或る種の「軽さ」を拭い去れないだろう。
例えば、アニメが現実のリアルさを極限まで表現してみせたとしても、よくぞ”アニメで”ここまでやったという評価しか得られない筈だ。
アニメでは無いが「リアル」という漫画がある。車椅子バスケットをテーマとした恐ろしく深みのある「写実的」テーマを持った漫画である。これを読んで車椅子バスケットの現実の実演者たちに思いを馳せる事ができる。そしてそこには「リアル」という題名に負けない、まさにリアルな切実さがある。だが、これにしたって、よくぞ”漫画”でここまでやったという評価が最大の賛辞として送られる羽目になってはしないか?
ぼくは、このような賛辞を送ったって作者は顔を曇らせるだけではないのかと、勝手に想像している。
明確なテーマを持った優れた漫画は(もちろんアニメも)、同題材の映画や小説より深遠さを表現することができるという証明であるし、むろんその逆もまた然りであろう。要は、なんであれ作り手の技量に拠るという事だ。
…にも関わらず、先に述べた侮蔑的賛辞を送られるのは、これはもう、もうもはや「漫画」が紙上に描いた線画の集合体だからだ、と言うしかあるまい。表現手法が何かという問題は、本質的にテーマや作品の質に先んじて読み手に一つの態度を決定させている。つまり、”漫画”や”アニメ”は完全無欠の虚構であり、虚構が紡ぎだした”世界”であって、写実的”世界”とは根本的に異なるという態度。
これは人間が作品を鑑賞するときの媒体がなんであれ感覚器官であるから、我を忘れて鑑賞中のときでさえ、「実写」と「絵」の違いを感覚が峻別しつづけるのは当然のことである。
(小説の場合は、テープに吹き込んだ朗読であっても、文字であっても、結局、言語という特殊感覚に還元されるものであるから、これと同列に論じることはできない。)
結局、何が言いたいかというと、アニメや漫画は、この前鑑賞的感覚が齎す態度に付け込み、これが虚構であることを隠さずむしろ全面的に主張し、難しく入り組んだ現実と剥離しているという安心感のもと、そのアニメが表現したいものだけを掻い摘んで構成するというのが本質的技法ではないのか、という事だ。
そして、そのような「掻い摘んだ世界」こそが、むやみに「楽しい」アニメというものが存立し得る理由ではないのか。ぼくが、可愛い萌えアニメキャラを見て異常に心和むのは、つまりところ、キャラの絵のタッチの柔和さにあるのだ。アニメはキャラの絵のタッチが、その作品の全印象を決定付けるほど重要であり、絵のタッチだけで「楽しい」以外の(この場合、ハルヒやらき☆すたのようなアニメの事を言っているのだが)多くの要素を排除しているのである。
まさに、この「楽しい」を完璧に再現することのできる人類の表現方法は、いまのところアニメもしくはそれに類するメディアだけなのだ。これがアニメの美点でなくて何だというのだろう。
…しかし世の中には、実に偏見に満ち満ちた人間がいるもので、上のようなアニメ特有の美点を穿った目で扱き下ろし、アニメは空疎であり現実を薄めただけの取りに足らないものであるなどと、どんでもない事を言う輩がいるのだから、信じられぬ。アニメファンの中ですら、「エヴァ」には深いテーマがあるが、ハルヒやらき☆すたは、楽しいだけだからダメだなどと見当違いも甚だしい事を言う輩がいる。法外に「楽しい」世界を実現することが如何に困難か、いかに傑出した才能と努力と歴史が必要だったか、そんな事すら思い付かないのだろうかと反発を感じてしまう。その点に少しでも思いを巡らせてくれれば、ハルヒやらき☆すたが如何に価値ある作品か、感じ取ることもできるだろうに─。
なんだが、話が大きくズレてきたので、ズレついでに今後のハルヒについても占っておこう。
ハルヒが主人公のキョンへのあからさまな好意を自覚することは今後もないと断言しておく。これがあっては涼宮ハルヒはもはやハルヒで無くなってしまうからである。色恋沙汰で思い悩むハルヒなど魅力の欠片も無いし、彼女がその唯一とも言える潜在的弱点を顕在化させてしまうというのは、冒頭に挙げた能動的性格を全否定することに繋がりかねない。かといって、逆にラブモードな状態になっているハルヒはもはやツンデレでなく、もはや共感すらできない。
結局、無自覚的なキョンへの好意という微妙な匙加減が、ハルヒの猛々しさを損なうことなく一人のツンデレヒロインたらしめているといえよう。
では、そもそも、なぜツンデレは魅力的なのか。現実的に、魅力的な女性から好意を持たれたいという願望は誰にでもあるし、そういう女性は愛らしいものだが、ツンデレヒロインは、まずこの「デレ」の部分を主人公=視聴者の分身に向けることによって、その存在を主張する─と、ここまでは単に現実から仮想への単純な移行であるが、さらに秋葉系ヒロインは多くの場合「ツン」の性格を植え付けられるのである。
「ツンデレ」というのは、「葛藤する感情の二面性」であり、そこから「物語性」を発生させる磁場でもあるというのがぼくの見解である。ぼくは現実の「ツンデレ」的女は精神的に疲れるという理由で忌み嫌うのだが、アニメの「ツンデレ」は大好きだ。「ツンデレ」が魅力あるものとして成立するのは、現実の嫌味な生なましさが残らないアニメという形態においてのみである。アニメの「ツンデレ」は好意の処し方を知らずに自己を持て余しているヒロインの初心さのみをクローズアップする。この純真無垢な感じがグッと来るのである。
さて、これ以上散文的な思い付きが浮かばないので、やっとこ最初に話に戻るが、「愛情というものは自分に似たものには決して向かないのではないか」という最初問いには、Noと答えたい。「現実の嫌味な生々しさ」という言葉からの連想でヒントを得たのだが、自分とは正反対なアニメヒロインの性格を好くということは、現実の自分をどこか嫌っている部分があるとからだと気づいたからだ。
この問い自体、「自身への嫌悪のがそれとは反対のものへ傾かせた憧れ」という単純な心の機動を、無闇に拡大解釈したものであって、自分を好いている人間までもが、自分に似ているものへの愛情が沸かないなどと言うのは偏狭である。そういえば、仮面の告白の主人公も激しく自分を嫌悪していた。どちらも、「自己への嫌悪」という現実に目をつむった結果、自己保全的に発生した誤魔かしの理屈であると言えるかも知れない。
『美─美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ!(a.) つまり、杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。(b.)なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ。(c.)美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。(d.) 俺は無教育だけど、この事はずいぶん考え抜いたものだ。(e.)実に神秘は無限だなあ!(f.) この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめているよ。(g.) この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。(h.) ああ美か!(i.) 俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母(マドンナ)の理想を懐いて踏み出しながら、結局悪行(ソドム)の理想をもって終るという事なんだ。(j.) いや、まだまだ恐ろしい事がある。(k.) つまり悪行(ソドム)の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母(マドンナ)の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。(l.) いや実に人間の心は広い、あまり広過ぎるくらいだ。俺は出来る事なら少し縮めてみたいよ。(m.) ええ畜生、何が何だか分かりゃしない、本当に! (n.) 理性の眼で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。(o.) 一体悪行(ソドム)の中に美があるのかしらん?(p.) ・・・ …しかし、人間て奴は自分の痛いことばかり話したがるものだよ。(q.) 』
上文は、仮面の告白の本章にある言葉ではなく、序文として掲げられたドストエフスキィ著の「カラマーゾフの兄弟」よりの抜粋文である。
小説の台詞というものを考えるとき、あまりにもそのエッセンスが詰まっているように感じたので、これも考察の対象としたい。
(a.)
・ 「美─美という奴は」 … 「美─」の「─」は、言葉を区切ることにより、その台詞に間が置かれたことを示す。
「─」の使い方は様々だろうが、共通して言えるのは、語り部が強調したい命題を表すという点である。
「美─」に続く文章の最終端は「!」で締められており、「─」と「!」という類似の作用が共に合わさって『相乗効果』を生み出している。
(b.)、(c.)
・(b.)は(a.)の印象が強烈であるため割と落ち着いた感じに映る。だが、この「落ち着いた」感じは、(c).の文章を見ると策略的であるとしか思えない。(c).の語尾「ものなあ。」は『詠嘆調』であるもの、(a.)ほどのインパクトは無い。(a.)が『激情の迸り』により発せられた言葉だとしたら、(c).は落ち着いた印象の(b.)を間に置くことにより、幾分の理知を回復しつつそれでも激情の『余韻』を払拭できない─そんな精神の機微を表現している。この『余韻』を醸し出すための下拵えとして(a.)および(b.)がある。
(d.)
感情の吐露であるが故に抽象的でもあった文章に、具体的な観念がここで込められる。
(a).~(c).で終わっては、やはり明朗さに欠ける面がある。その不足が(d.)で補われ、一つの文節がこれで完結するのである。
(e.)
一つの文節であった(a.)~(d.)が終わり、新たな文節を区切るに当たって主語が「俺は」である。ガラリと印象の違う一人称を登場させることにより、文節の区切りがより際立って見える。(『文節の区切りにおける主語の差異化』)
(f.)
ここでも又「なあ!」系の感嘆詞である。以降、ドストエフスキー特有の感嘆詞が止め処もなく押し寄せる。このような癖ある言葉の乱用は通常その文の格調を貶めてしまうが、この作家の天分はその癖を文体の調律をもって仕立て直し、語部のアツい激情を読み手に共振させるための一種の「装置」を作中に現前せしめるのである。
そして、この成功の一要因は、(e.)の例にも見れるように、文節の区切り方の非凡なる巧みさにあるだろう。
(g.)
ここも注目すべきはその語尾である。「いるよ。」─つまりこれまでに出なかった語尾「よ。」で終わらせている。思想や感情の吐露としての台詞と、現状への純粋な認識としての台詞にも、このような差異がある。言うなれば、『語られるモノのカテゴリーをそれと無く読み手に悟らせるための語尾の使い分け』である。
(h.)
美の神秘なる性質を殊更に表現するために「水に濡れる」という直感に訴えかけるような例え話を持ち出している。昔から言われていることだが、或る事柄の性質を殊更に形容するときは、人間の五感に絡むような表現を駆使すると良いとされてきた。・・・成る程、これは確かに論理的も納得できる尤もな説である。
しかし、この部分の形容は「神秘性を感覚的に表す」という意味において適切な表現であるが、読み手を唸らせるほどではない。或る事柄の形容方法について言えば、現代の作家たちの方が、思わず心の襞を抉り出されるかのような斬新かつ包括的な、様々の成功を収めている。優れた現代の作家たちと一昔前の作家たちを比較したとき、文芸上の進化が明瞭に見てとれると思うのはこの点である。現代の作家の優れた形容表現には、論理的な言葉を使っていないにも関わらず哲学的であり、個人の価値観や思想が実に簡潔な数行で凝縮されているように思える事が度々ある。もっとも前衛的な作家の場合、その表現方法自体が、過去の文芸が意図せずして生み出した型枠への問題提起だったりする事さえある。
一見、論理的に見える定説というものは、意欲的実験作によって打ち破られることが稀にあるのだ。
よく、誰もが納得できるような小説読本なるものがあり、それ自体は何ら批判を差し挟むようなものではないのだが、心理学的あるいは哲学的な創意ある逆説から、これらを覆す想像力の爆発が発生するのである。
話が大きく逸脱してしまうことになるが、これが小説読本の一つの意義の有る使い方である。その逆説が思いつきの浅はかなものでなく、小説の構造の根本から考え直す求心力があれば、小説の新しい形を示したり、そこまではいかなくとも、自分なりの表現方法というものを確立するに契機になるだろう。
三島由紀夫も谷崎潤一郎も筒井康隆も、それまでに無かった小説の新しい形を提唱し得たという意味で、文学史上の偉大なる変節点であるに違いない。私がこれらの作家に惹かれるのは、第一に彼らが何人も真似できぬ独自性を発揮し続けるからであるが、翻って思えば彼らは「誰もやってなかったこと」の成功者であり、小説の裾野を孤軍奮闘のすえ拡大させたのだから、その仕事には途方もない価値がある。
(埴谷雄高もその文体に惹かれるし、「死霊」が何かトテツモナイ小説だということを直感が訴えてくるのだが、内容が難しいというイメージがあるせいかまともに読んだことがない。kubitakeoの名がこのブログのURLになったほどに登場人物への思い入れがあるにも関わらず、どんな小説か解説できるほど読み込んでない。いつかこのブログ上でまともな感想を載っけたいものだ。)
(i.)以降
『接頭詞が実に多彩』である事に注目したい。これは端的にいうと、読み手を飽きさせず、次の文章への期待感を持続させる効果がある。
(…という紋切り型の評価も、(h.)の小説読本に関する考察に則って考えれば、こういう指摘で終わるだけでは意味がないのだ。これの進化形がまだ実現され得ぬ可能性として眠っているかも知れない。…とはいえ、何事につけても、基本は大事である。基本の習得なしに逆説的独創性が生まれる訳がない。だから、上述の偉大なる仕事をやってのけた小説家たちは単に独自性があるというだけでなく小説を著述する上での一般的な技能においても抜きん出ているのである。血気に走ってこの勘所を忘却すると見るに耐えぬ粗悪なものが出来るに違いない。)
(q.)
この台詞全体を締めくくる最後の言葉として、素晴らしく抑えが効いている。この辺は見事という他はない。
激情に駆られ喋り倒した男が、ふと我に返って(おそらくは)半ば照れくさそうに言い訳をするという…この『精神の機微を感じさせる人間臭さ』が堪らない魅力を添えている。
たぶんこのような文体を書くために利用可能な学問の筆頭は心理学だろう。台詞というのは多くの場合感情の吐露である訳で、説明的な描写をそのまま棒読みのように記述しても糞面白くないこと甚だしい。
なので今後は、心理学関連の本にも食指をのばしてみたい。