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ぼくは、涼宮ハルヒというキャラクターが、とてつもなく好きである。
京都アニメーションの高水準な作画・演出が作中ヒロインの魅力を引き立てる一因になっているのだろうが、それでなくても、やはりハルヒというキャラそれ自体が好きである。
まずキャラデザが奇跡的で、ぼくの場合、いとうのいぢ氏の原画よりもアニメの方の少し大人びた造形に魅了されてしまう。
ハルヒのような、容姿端麗・頭脳明晰・運動神経にも秀でた万能型の人間を見ると、いかに性格的な欠点があるにせよ、ここまで外面的な能力の完璧さを誇る人間の内面は実は「天真爛漫」なだけじゃないかなどと好意的な評価に傾いてしてしまうから不思議だ。
本当は傲岸不遜で高慢極まりない電波系アホ女なのであるが。
ハルヒは秋葉系ヒロインとしてはツンデレ含有率が異常に低く、一般ツンデレ水準なるものがあると仮定すると 5%ほどの数値になると思うが、この性格設定の斬新さも気に入った。
なぜ唐突にこういう事を書いたのかというと、これまた何の関連性も無い話だが最近、三島由紀夫の「仮面の告白」を読んでいて、「愛情というものは自分に似たものには決して向かないのではないか」という主人公の回想に、そうするとオレのハルヒ好きは自分に何一つ無いものをこのキャラが全て持っているからという結論になるが、果たしてそんなものなのかと半信半疑でその実験的検証をしてみたくなったからである。
ハルヒのような奴が身近にいたらまず間違いなく嫌悪するだろうし、現実的な自分の好みはもっと従順な子だったりする事を考えると、どうやらハルヒ好きの所以はそハルヒがアニメキャラである点にあるらしい。
実際、日常が罵詈雑言で溢れているのハルヒの周囲には生々しい嫌味が全然漂ってない。
よって、これは実に「楽しい」ものである。
これはアニメ特有の浄化作用の効能とでも言うべきものだろう。
アニメとは架空の現実を「言葉」や「実写映像」ではなく「絵」で再生する表現手法である。だからアニメにはそれがテーマとしないあらゆる不都合なものを最初から完全に削り去ってしまい、逆にテーマに必要なあらゆる要素を煽情的なまでに強調する優れた特性がある。
小説ではこうは都合良くいかない。小説は「言葉」によって読み手のイメージを喚起させるが、そのイメージはまさに現実の経験に寄って立つ所のものであり、個に根ざした深い印象を与えることができるものの、或る意味そのイメージは人によって微妙なばらつきがある。その「言葉」からどんな光景を人が連想しているのかは、その人にしか知り得ぬ情報である。そしてその連想のベクトルは、現実に存在するあれやこれや(幸福に浸れるような情景もあれば、目を背けたい不快なものもあるだろう)に波及するため、「楽しいか」と問われれば、楽しくはない。素晴らしく感銘を受けた面白い小説、時を忘れるほど引き込まれた小説というのは、「楽しい」小説であった試しがない。言葉は読み手のイメージを増幅させ続けるので、世界に深く引き込ませることが可能だが、本質的に物事の暗部にメスを入れるものだ。
又、実写映画は、映像文化という点で勿論アニメとかなり近い立場にある。後発のアニメは多くの場合、実写映画の映画作法を下敷きにしたものだろう。しかし実写映画の場合、素材自体が写実的であるためどんなに荒唐無稽な映像であろうとも現実と密接にリンクする部分がある。むろんこれは実写映画の優れた点であって、アニメがいくら実写的な描画やテーマを表現しようとも、所詮は単なる空想上の虚構世界であるという或る種の「軽さ」を拭い去れないだろう。
例えば、アニメが現実のリアルさを極限まで表現してみせたとしても、よくぞ”アニメで”ここまでやったという評価しか得られない筈だ。
アニメでは無いが「リアル」という漫画がある。車椅子バスケットをテーマとした恐ろしく深みのある「写実的」テーマを持った漫画である。これを読んで車椅子バスケットの現実の実演者たちに思いを馳せる事ができる。そしてそこには「リアル」という題名に負けない、まさにリアルな切実さがある。だが、これにしたって、よくぞ”漫画”でここまでやったという評価が最大の賛辞として送られる羽目になってはしないか?
ぼくは、このような賛辞を送ったって作者は顔を曇らせるだけではないのかと、勝手に想像している。
明確なテーマを持った優れた漫画は(もちろんアニメも)、同題材の映画や小説より深遠さを表現することができるという証明であるし、むろんその逆もまた然りであろう。要は、なんであれ作り手の技量に拠るという事だ。
…にも関わらず、先に述べた侮蔑的賛辞を送られるのは、これはもう、もうもはや「漫画」が紙上に描いた線画の集合体だからだ、と言うしかあるまい。表現手法が何かという問題は、本質的にテーマや作品の質に先んじて読み手に一つの態度を決定させている。つまり、”漫画”や”アニメ”は完全無欠の虚構であり、虚構が紡ぎだした”世界”であって、写実的”世界”とは根本的に異なるという態度。
これは人間が作品を鑑賞するときの媒体がなんであれ感覚器官であるから、我を忘れて鑑賞中のときでさえ、「実写」と「絵」の違いを感覚が峻別しつづけるのは当然のことである。
(小説の場合は、テープに吹き込んだ朗読であっても、文字であっても、結局、言語という特殊感覚に還元されるものであるから、これと同列に論じることはできない。)
結局、何が言いたいかというと、アニメや漫画は、この前鑑賞的感覚が齎す態度に付け込み、これが虚構であることを隠さずむしろ全面的に主張し、難しく入り組んだ現実と剥離しているという安心感のもと、そのアニメが表現したいものだけを掻い摘んで構成するというのが本質的技法ではないのか、という事だ。
そして、そのような「掻い摘んだ世界」こそが、むやみに「楽しい」アニメというものが存立し得る理由ではないのか。ぼくが、可愛い萌えアニメキャラを見て異常に心和むのは、つまりところ、キャラの絵のタッチの柔和さにあるのだ。アニメはキャラの絵のタッチが、その作品の全印象を決定付けるほど重要であり、絵のタッチだけで「楽しい」以外の(この場合、ハルヒやらき☆すたのようなアニメの事を言っているのだが)多くの要素を排除しているのである。
まさに、この「楽しい」を完璧に再現することのできる人類の表現方法は、いまのところアニメもしくはそれに類するメディアだけなのだ。これがアニメの美点でなくて何だというのだろう。
…しかし世の中には、実に偏見に満ち満ちた人間がいるもので、上のようなアニメ特有の美点を穿った目で扱き下ろし、アニメは空疎であり現実を薄めただけの取りに足らないものであるなどと、どんでもない事を言う輩がいるのだから、信じられぬ。アニメファンの中ですら、「エヴァ」には深いテーマがあるが、ハルヒやらき☆すたは、楽しいだけだからダメだなどと見当違いも甚だしい事を言う輩がいる。法外に「楽しい」世界を実現することが如何に困難か、いかに傑出した才能と努力と歴史が必要だったか、そんな事すら思い付かないのだろうかと反発を感じてしまう。その点に少しでも思いを巡らせてくれれば、ハルヒやらき☆すたが如何に価値ある作品か、感じ取ることもできるだろうに─。
なんだが、話が大きくズレてきたので、ズレついでに今後のハルヒについても占っておこう。
ハルヒが主人公のキョンへのあからさまな好意を自覚することは今後もないと断言しておく。これがあっては涼宮ハルヒはもはやハルヒで無くなってしまうからである。色恋沙汰で思い悩むハルヒなど魅力の欠片も無いし、彼女がその唯一とも言える潜在的弱点を顕在化させてしまうというのは、冒頭に挙げた能動的性格を全否定することに繋がりかねない。かといって、逆にラブモードな状態になっているハルヒはもはやツンデレでなく、もはや共感すらできない。
結局、無自覚的なキョンへの好意という微妙な匙加減が、ハルヒの猛々しさを損なうことなく一人のツンデレヒロインたらしめているといえよう。
では、そもそも、なぜツンデレは魅力的なのか。現実的に、魅力的な女性から好意を持たれたいという願望は誰にでもあるし、そういう女性は愛らしいものだが、ツンデレヒロインは、まずこの「デレ」の部分を主人公=視聴者の分身に向けることによって、その存在を主張する─と、ここまでは単に現実から仮想への単純な移行であるが、さらに秋葉系ヒロインは多くの場合「ツン」の性格を植え付けられるのである。
「ツンデレ」というのは、「葛藤する感情の二面性」であり、そこから「物語性」を発生させる磁場でもあるというのがぼくの見解である。ぼくは現実の「ツンデレ」的女は精神的に疲れるという理由で忌み嫌うのだが、アニメの「ツンデレ」は大好きだ。「ツンデレ」が魅力あるものとして成立するのは、現実の嫌味な生なましさが残らないアニメという形態においてのみである。アニメの「ツンデレ」は好意の処し方を知らずに自己を持て余しているヒロインの初心さのみをクローズアップする。この純真無垢な感じがグッと来るのである。
さて、これ以上散文的な思い付きが浮かばないので、やっとこ最初に話に戻るが、「愛情というものは自分に似たものには決して向かないのではないか」という最初問いには、Noと答えたい。「現実の嫌味な生々しさ」という言葉からの連想でヒントを得たのだが、自分とは正反対なアニメヒロインの性格を好くということは、現実の自分をどこか嫌っている部分があるとからだと気づいたからだ。
この問い自体、「自身への嫌悪のがそれとは反対のものへ傾かせた憧れ」という単純な心の機動を、無闇に拡大解釈したものであって、自分を好いている人間までもが、自分に似ているものへの愛情が沸かないなどと言うのは偏狭である。そういえば、仮面の告白の主人公も激しく自分を嫌悪していた。どちらも、「自己への嫌悪」という現実に目をつむった結果、自己保全的に発生した誤魔かしの理屈であると言えるかも知れない。